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第157号

2023年1月4日

「負けること勝つこと(113)」 浅田 和幸

 

 

 今年の10月に中国では5年に1度開催される共産党大会が開かれ、習近平が党の最高指導者である国家主席として3期目への続投が決まったことが、大きな話題として日本でも取り上げられていました。これまでは、国家主席は2期10年ということが、慣例となっており、そこで指導者が変わるということが、ここ30年余り続いてきました。

 これは、中国共産党の指導者として、中国革命を指導し、その後、長く絶対的指導者として君臨した毛沢東による政治の歪や権力の乱用と言ったことが、中国国内を混乱させたということで、毛沢東の死後、実権を握ったト小平により、絶対的権力を生み出さないシステムとして、導入されたものでした。

 これとは反対に、中国に隣接した同盟国である朝鮮人民共和国は、この国を革命で生み出した金日成の子ども、孫といったように、世襲制による体制を選択し、現在に至るまで、独裁国家として強権的な統治を行っています。

 そういう意味で、ト小平のプランニングは、的を射ており、彼が主導した市場経済の導入により、経済的に貧しかった中国は、飛躍的な発展を遂げ、現在では、アメリカ合衆国と世界の覇権を争うまでに、経済的にも、軍事的にも、強大な国家を築き上げることとなりました。

 ところが、今回の習近平の国家主席の続投により、このプランニングに齟齬が生じたということになります。勿論、権力者は、未来永劫に渡り、自らの権力を手放したくはないといった妄想というか願望を抱いています。

 しかし、こういった独裁的な権力集中が、社会を混乱させ、対立を激化させるといった経験値から、近代社会においては、選挙といった手段により、権力の交代を誘導すると共に、アメリカ大統領の様に、法律で、2期8年と任期を明記し、それ以上長くその地位に留まることを認めないシステムを採用している国がほとんどとなっています。

 但し、こういったシステムで選ばれながら、在任中に、勝手に法律を変え、権力を死守することで、独裁的な体制を構築し、その後、国民を不幸へと追い落とすナチスドイツのヒトラーのような場合もありますが、現在の世界では、民主主義国家と呼ばれている国家では、ほとんどが上記のような法律で、権力の独占と乱用を阻止しています。

 そういう意味では、経済的には市場経済を導入しながら、政治的には中国共産党の一党独裁政治を継続している中国は、世界的に見て、大国としては、特異な国の部類に属すると言っても差し支えないように思います。

 そして、この習近平の国家主席としての新たな5年が始まったばかりの11月後半に、それまで政府のゼロコロナ政策に唯々諾々と従ってきた中国の人たちの中から、反ゼロコロナを掲げ、声高に、習近平批判を唱える運動が生じたのは、その背後に凄まじい権力闘争の軋轢があるのではとわたしは推測しています。

 ただ、そういった苛烈な権力闘争と同時に、中国の人々の意識の変化もそこにはあるように思います。まず経済的豊かさです。前号でも書きましたが、人々が貧しく飢えている時は、どんな食事であれ、飢えを凌げるような政治を実行してくれる指導者を支持するのです。

 しかし、腹が満たされてくると、人々は様々な要求を始めるのです。その結果、社会主義国家を標榜したソ連やかつての中国のような計画経済による国家運営は、人々の様々な欲求の前に、敗れ去っていく事となりました。

 それが、ソビエト連邦の崩壊であり、東西冷戦の終結だったのです。そういう経済のメカニズムをいち早く見抜き、大胆に市場経済を中国に導入したト小平の先見性は、今日の中国の繁栄の基礎となっていますが、実は、この市場経済にはもう1つ大きな要素が存在しているのです。

 それが「自由」です。計画経済には、商品を選ぶという自由は限定されていました。国家が管理した商品の中から選択するだけで、現在の日本のわたしたちがやっているような自由な選択はありませんでした。

 それが、市場経済を導入することで、自由な競争が生まれ、人々に望まれ愛される商品だけが生き残っていけるというメカニズムが確立します。しかし、それは単に商品の選択だけには留まらないのです。それと同時に、人々は「自由」を手にし、その「自由」の価値を実感することとなります。

 その結果、「自由」の価値は、単に消費行動だけに留まらず、生活全般へと行き渡り、それにより意識の変化が生じて来ることにもなります。つまり、「自由」が人間にとって、極めて重要な価値であるということを実感できるのです。

 わたしは、今回の中国の人々の抗議行動を見ていて、そういう「自由」への渇望といったモノが、若い世代を中心に芽生え、それが力を持ってきたように感じています。

 今回の抗議活動に関しては、30年近く前の「天安門事件」と対比されて報道されている場合もありますが、多分、その「天安門事件」とは、全く異なった新たな抗議活動ではないかとわたしは考えています。その大きな理由の1 つが、中国経済の成長と発展です。

 30年前の中国社会は、まだ貧しい状態に取り残されていました。ニュースの映像に見えるデモに集まった大学生たちの服装は、男性は開襟シャツ、女性も白いブラウスと言った佇まいで、わたしの目には、日本の60年安保闘争当時の日本の学生の様に見受けられました。つまり、当時の中国は日本に比べて30年余り遅れていたということです。

 それ故、共産党幹部の腐敗を糾弾するために天安門に集結した学生たちは、国内でのエリートたちで、ある意味、若いエリートたちと老いたエリートたちの権力闘争といった様相を呈していたのではなかったでしょうか。

 そこには、一般の人たちが共感できる抗議活動にまで成熟していない未消化な部分が残存しており、その弱さを見透かされた結果、老いたエリートたちは軍隊による鎮圧で、事態を収拾出来たのだとわたしは分析しています。

 そして、「天安門事件」以降の中国は、市場経済を積極的に導入し、瞬く間に経済大国へとのし上がり、日本のGDPを追い抜き、アメリカに次ぐ経済規模の大国として、世界に君臨することが出来たのでした。

 しかし、積極的に市場経済を導入し、経済を活性化させていく中で、政治制度として残して来た中国共産党による一党独裁政治は、次第に矛盾を露呈し始めることとなっています。

 それが「自由」を巡る問題です。例えば、アメリカのGAFAと呼ばれているITのプラットホームの巨大企業は、自らの事業活動について、法律的な違反が生じない限り、アメリカ政府より指導・勧告などといった規制を受けることはありません。これは日本でも同様です。

 それが中国では異なっています。1例として、中国版のamazonと言われている「アリババ」。そのグループを率いるジャック・マー氏は、中国政府への批判的な言動により、それまでの地位を追われ、「アリババ」の事業計画にも支障を来す事態となっています。

 このマー氏の批判と言うものは、日本やアメリカであれば、特に問題とされるような批判ではありませんでした。市場経済により事業を遂行していく経営者にとっては、自らの事業を拡大して行くための国からの規制等については、出来るだけ少なく自由度が高いものを望むわけです。

 そういう自由度をより一層高めて、事業を拡大して行くことを邪魔しないで欲しいといった思いから、政府の方針を批判したことが、どうやら致命傷となり、マー氏は中国国内での自由な活動を制限され、現在は日本国内でひっそりと暮らしている様子が、先日、テレビのカメラが伝えていました。

 こういった私企業と国家との間に生ずる軋轢は、どこの国においても生ずるものですが、基本的に法律に違反しない限り、企業家がその地位を剥奪されることはありません。

 ところが、中国国内においては、突然、政府の方針により一個人の権利が剥奪されるといった状況が生まれてくるのです。ここに市場経済と共産党一党独裁政治との間に生ずる矛盾が存在しているのです。

 多分、ト小平が、それまでの計画経済から市場経済に大きく舵を切った当時は、この矛盾は極めて小さいものであり、それより、メリットの方が大きかったと考えられます。

 実際、土地に関しては個人所有を認められていない中国において、工場建設や関連施設の建設といった計画は、中央政府の意向を受けた地方政府がタイムラグなく実施することが出来ました。

 日本であるなら、土地の収用や補償といった開発の前段階に、多くの時間と労力が必要とされる中、中国においては、そういう問題も簡単に処理できるということで、開発のスピードは比較にならない程早いものでした。

 そして、この開発の早さが、中国の経済にプラスに働き、世界の工場と呼ばれる規模での経済発展が可能になったのでした。そういう意味で、開発初期の中国経済にとっては、市場経済と共産党一党独裁は、極めて親和性のある関係が維持できたわけです。

 しかし、開発が進み、小規模だった私企業が大きくなり、更に、市場経済の規模が拡大して行く時、私企業はより自由な経済活動を模索することで、中央政府の意向と相反するような方針で企業活動を行うことが増えていきました。

 それに対して、中央政府は、1私企業の自由な経済活動を認めてしまうことを恐れるようになってきたのでした。それは、中国国内にある国営企業との関係性にあります。つまり、国営企業は、中央政府のグリップにより運営される一方、私企業は経営者の独自の判断で運営されるといったダブル・スタンダードが露呈して来るのでした。

 実際、中国の私企業は、法律により、中央政府の意向を受け、国家が命ずる義務を果たさなくては罰せられるという縛りの中で運営されています。そして、それをアメリカなどは畏れ、電子機器メーカーのHUAWEI製の電子機器の使用を禁止するといった方針を、現在日本も含め同盟国に求めています。

 これは、HUAWEI製の電子機器により、重要な国家機密などが、中国政府に盗み取られる可能性があるということでの処置で、中国の国内法では、中央政府の命令により、そういったことを私企業が拒否できない現実があるからです。

 こういう問題は、急に生じたわけではなく、当初から存在していたわけですが、市場経済が導入された初期の頃は、中国国内での生産の大部分が、安く大量な労働力を当にした下請け生産がほとんどであり、現在のような中国のメーカーという私企業が少なかったため、顕在化してこなかったのでした。

 ところが、下請けから中国のメーカーへと私企業が発展・拡大して行く中で、アメリカや日本での経済活動との違いが目につくようになり、更には、その弊害によりアメリカとの間での貿易摩擦、現在では貿易戦争と呼んでも良いような対立が生じて来たのです。

 ここで、漸く世界の国々の人々も、市場経済と共産党一党独裁政治との組み合わせに大きな矛盾があることに気づかされることとなったのでした。更に、1国家が、市場経済をコントロール出来ると考えることへの疑問も増大しているのです。

 わたしは、この疑問に対して、1国家が市場経済をコントロールすることなど不可能であるという考えに立っています。何故なら、市場経済を成り立たせている根本には、個々人の欲望が存在しているからです。

 それぞれ人間、顔や生活環境や考え方が違うように、市場経済を成り立たせている欲望も千差万別だということです。つまり、なにが正解ということではなく、全てが、個々人が欲すること全てが正解と言う社会では、1国家の思惑や意向など、まるっきり役に立たないということです。

 それは、自由と束縛といった二律背反する価値観の対立を意味しています。国家としては、出来る限り個々人の自由を規制し、国家の意思に従わせたいといった欲望を抑えることが出来ません。反対に、個々人は、国家の束縛を出来る限り排除して、自分の欲望を100 %実現したいという欲求を抑えることが出来ません。

 そこで、近代国家においては、権力者が恣意的に決定するものではなく、社会の構成員の大多数が合意し、決定した掟=法律により、国家の暴走と個々人の暴走を制御するといったシステムを社会に導入し、それにより安定した社会を築いてきたのでした。

 しかし、現在の中国においては、そのバランスが崩れています。個々人よりも国家の意思が優先されるという社会は、ある意味経済的な効率は優れています。先ほども書きましたが、日本で新しい道路を開通させようとすれば、その土地の収用や家屋の移転補償といったように、工事に取り掛かる前に長い時間と労力が必要となります。そして、時には、この交渉等が拗れ、道路の開通それ自体が大幅に遅れることもままあります。

 ただ、こういった個々人の権利を国家の意思から守るという法律は、全ての国民が有している権利を守るという意味で、誠に重要なものなのです。もし、これが守られないなら、現在、北朝鮮の人々の多くが味わっている悲惨な生活を強いられることになります。

 勿論、現代の中国社会においては、北朝鮮で起きている悲惨な生活を国家から強いられることは無いと思われますが、いずれにしても個々人の権利を守るより、国家の意思を優先するといった施策が実行されていることに変わりはありません。

 そして、それが貧しかった中国経済を飛躍的に上昇させて行く時は、その対価として個々人が支払っても仕方がない負担であるといった考え方が主流だったように思われます。つまり、苦しい時を我慢すれば、やがて未来に素晴らしい生活が待っているといった期待の方が、批判よりも優先していたということです。

 ところが、経済的に豊かになり、世界2番目の経済大国として君臨するようになった今、人々の中で醸成されてきた自由への渇望は、日増しに強くなっているように思えます。現在の中国社会において、経済的に豊かになるということは、自分の欲望を満たすことが出来る財貨を所有することです。

 かつての毛沢東の時代の様に、お金があったとしても、自分の欲しいものが商店に無い時代と異なり、現在では、お金があれば、世界各地から自分の欲しいものを自由に手に入れることが出来る時代へと変わったのです。

 本来、社会主義経済では、所得の平等ということが重要視されました。働く人々が格差の無い生活を送れるように、富の公平な分配が求められていました。しかし、市場経済に移行した中国においては、自らが稼いだ金は自分のものとして認められ、その結果、経済的に成功した人たちは、巨額のお金を所有できることとなりました。

 つまり、現在の中国社会は、日本の社会と同様に、経済的公平さを前提にした社会ではなく、経済的格差を前提にした社会ということとなります。この経済的格差が顕著になっていく中、習近平執行部は、「共同富裕」というスローガンを掲げ、格差の是正を近年試みています。

 これは、30年間継続して来た市場経済により生じた国民の経済的な格差に目を瞑っていられなった結果かと思われます。そして、私企業として成功した企業や個人の能力により成功したセレブたちに、その稼いだ巨万の富を社会に還元しろという中央政府の一方的な強制が、ニュースとして報じられています。

 考えて見れば、市場経済を導入した時点で、こういった経済的格差が社会を分断していく可能性があることは、有能な党執行部の中枢の人々は、十分に想像していたことだったでしょう。ただ、そういう分断が生ずることを恐れるよりも、貧しいままに暮らすことで、再び、革命が起こり、共産党が倒れることを恐れたのだと思います。

 ただ、彼らエリートたちも想像していなかったことは、経済的な格差が、社会に生ずることで、人々の間に、自由への渇望が生まれるということだったのではないでしょうか?

 これは豊かになった人間にも、豊かになれなかった人間にも両方ともに起きる渇望なのです。前者は、更なる豊かさを求めていく中で、国家の強いる規制や束縛からの自由を求めるのです。後者は、自分が目標とした豊かさに届かなかったことで、もう一度再挑戦をしていく中で、成功できなかった制度やルールからの自由を求めるのです。

 いずれにしても、国家がある枠組みの中に閉じ込めようとすればするほど、個々人は、その枠組みの中から飛び出そうという自由な意思を育んでいく事になります。これは、人間の持つ性であり、その溢れるパワーを国家と雖も抑えることなど出来ません。特に、「革命」を天から与えられた人間の使命だと信ずる中国人であれば、尚更のことと思います。

 このように、一たび自由に目覚めた人々は、それを阻害されることを不愉快と感ずるだけでなく、邪魔するものを排除して行こうと行動を始めるのです。つまり、今回のゼロコロナ政策に反対し、習近平政権に異議を申し立てている多くの人たちは、単なる経済的な豊かさを求めているわけでなく、自由を基本にした社会を渇望する感情を所有してしまった新しい中国人と呼んでも良い人たちに思われます。

 この点、習近平主席と彼を支持する古い中国人とは、多分、分かり合えることはないと思います。それは、彼ら古い世代の人々は、毛沢東が扇動した「文化大革命」の世代に当たり、貧しい時代を必死に生き抜き、勝ち抜いて来たからです。

 だから、彼ら古い世代の指導者たちは、新しい中国人の価値観や思想が国内で力を持ち始めていると頭の中では理解しながら、それを素直に認めることが出来ないといったアンビバレンツな感情に心が引き裂かれているように思います。

 更に言えば、現指導部が推し進めようとしている「共同富裕」の施策は、中国経済の活力源である市場経済を蝕み、計画経済へと先祖返りを果たそうとする混乱を齎す危険性を孕んでいるようにわたしには思えます。

 確かに、社会主義経済では、富の分配を管理し、経済的格差を最小にして、平等な社会を実現しようという考えが基本にありますが、実際、人間は能力的に平等ではありません。特に、経済的活動においては、個々人の能力により優劣が生まれて来ることを避けることは出来ません。

 ところが、社会主義革命を標榜した旧ソ連では、平等な社会を実現出来ると考えて、同じ仕事に携わっている労働者であれば、同一賃金と言う制度を作りました。その結果、働いても働かなくても賃金が変わらない現実を前に、ほとんどの人が働かない方を選んだことで、最終的にアメリカに経済的敗北を喫したのでした。

 その欠陥に気づいたト小平は、市場経済を導入し、競争を肯定し、更には、個々人の富の蓄積を認めたことで、爆発的な経済発展が可能となったのでした。

 そこには、人間の物質的欲望を満たすという現実主義が肯定されており、観念的な社会主義思想より、現実主義を優先させるという人間としての機微が配慮されていました。

 しかし、習近平執行部が推進しようとしている「共同富裕」には、そういう現実主義が欠如しています。教条主義的な社会主義思想により、金持ちが貧しい人の面倒を見ろという道徳的な徳目が目立っています。

 これでは市場経済の持つ活力が次第に奪われると同時に、有能な経済人たちは、中国を脱出し、新たな場所で、自らの能力を生かそうと励むことになります。それは、これまで順調に発展して来た中国国内での経済成長を阻害させる大きな要因になることと推測しています。

 それではこれからの中国はどうして行けば良いのか?ということになりますが、実は、この問題は日本社会にも共通している問題でもあるのです。

 前号でも書きましたが、日本の場合は、60年代に始まった高度経済成長が一段落し、その後、成熟した市民社会が構築され、豊かな社会へと変貌を遂げる未来を期待されながら、現実は、バブル経済崩壊後、長く経済的停滞期間を経て、現在は、先進国でも経済成長率は最下位に甘んじ、新自由主義により、国民の経済格差は拡大しています。

 東西冷戦が崩壊し、経済がグローバル化して行く中で、更なる経済発展を求めながら、現実においては発展ではなく停滞の期間が長く続いたことで、市場経済の過酷な競争と格差が、国民全体を貧しくしていっていることを認めるべきだと前号で述べました。

 その負のスパイラルに中国経済も嵌りつつあるように思います。その結果、私企業のパワーを奪い、国営企業の台頭へと繋がるなら、高い成長率を誇り、急拡大して来た中国経済に、陰りとブレーキがかかるとわたしは推測しています。

 つまり、市場経済の歪を是正するために、計画経済や富裕層の施しを導入することでは解決できないということです。数年前にも、アベノミクスで盛んに言われた「トリクルダウン効果」。富裕層にお金が集まれば、そのおこぼれで貧しい人々も一緒に豊かになれるという説は、妄想のフェイク学説だったことは、現在の日本社会が雄弁に証明しています。

 中国政府の進めようとしている「共同富裕」も、日本と同様に失敗することは目に見えていながら、そこに依存するのは、一種のポピリズムに習近平執行部も囚われているということでしょうか?それだけ、中国の人々の国民としての意識が高まり、その意向を無視できなくなっているということのようです。

 さて、ここに至って、日本、中国の両国で生じている問題を解決する方法として、前号から述べて来た社会主義経済の導入の必要性が高まっていると考えています。そして、その方法として、わたしは、富裕層から貧困層への富や財の流れを強制する、或いは富裕層の富の集積を抑止するといったものではなく、貧困層を底上げすることで、中流層のボリウムを増大させることが必要ではないかと考えています。つまり、戦後の日本が行ってきた「一億総中流」の復活ということです。(続く)


「問われている絵画(148)-絵画への接近68-」 薗部 雄作
「近代民主主義社会における人間存在の意味や価値にどう向き合うか」 深瀬 久敬
【編集あとがき】
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編集発行:人間地球社会倶楽部

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