1.今日の人間社会の根本的課題
これから10年、100年、1000年後の地球上の人間は、どのような生き方をしているのであろうか。自分自身がみることはないにしても、孫などがどのような生き方をしているのか、無関心ではいられない気持ちになる。
将来の在り方を想像するには、まず、現状の在り方を深く理解する必要があるだろうし、また、なぜ、どのようなプロセスを経て、今のような在り方に到っているのか理解する必要もありそうである。
今現在のわたしたちの状況をみるとき、温暖化・環境汚染・資源枯渇といった地球環境問題、科学技術の急速な進展に伴う倫理的法的社会的軋轢、格差社会解決の不透明さ、人口問題と少子高齢化への対応の困難化などがよく指摘されている。しかし、わたしは、ウクライナ戦争や台湾問題に象徴されるような権威主義体制と民主主義体制の対立の構図が、わたしたちが直面している最も根本的な課題ではないかと考える。なぜなら、権威主義体制がなんらかの形で融解し、民主主義体制がこの地球上を覆うことになれば、一人ひとりの主体性が遺憾なく発揮されることによって、先に述べたような課題に、少なくとも解決への見通しをもつことができるのではないかと思うからである。
2.権威主義体制とは?
では、権威主義体制という社会統治の仕組みは、どのようにして人間社会にもたらされたのであろうか。わたしは、まず人間が自然界から乖離した存在であることを自意識として自覚し、自らの存在の意味や価値を自問することをはじめたことがその第一歩なのではないかと思う。さらに、農耕などの集団を伴う労働を通して食糧を安定して確保するという他の生き物にはない生存手段を獲得し、その体制に、より一層の秩序と安定をもたらそうとするなかで、権威主義体制が幅広く浸透していったのではないかと思う。
すなわち、そこでは自分たちの集団が、より強固な秩序と安定を実現するために、自らの存在の意味や価値がそれに都合のよいように神話や宗教といった形式をとって掘り下げられた。そして、それらが社会的に幅広く共有されることによって、存在の意味や価値を具現する権威をより普遍性の高いものへと深化させていったではないだろうか。
このような伝統的な権威主義体制のもとでは、身分制度のような社会分業体制が敷かれ、社会運営の効率化が図られた。そうした身分制度は輪廻転生のような運命的なものとして受け入れられ、体制の安定性が担保された。そして、そうした体制のもとでは、人々の行動や好奇心は制限され、情報は一方的に統制された。他方、日々の生活の安定と娯楽的な潤いは権威を担う人々の努力義務によってゆとりのある限り提供されるのが普通であった。一方、この権威主義体制は、他の権威主義体制や異なる主義に基づく体制とあいまみえるとき、その共存は困難であり、どちらかへの統一を目指す戦争にいたるのが常であったことに注意する必要がある。そして、やや些細なことになるかもしれないが、形式的とはいえ、その社会に住む全ての人々に対する全体的な視点が権威を担う人達によって実現されたという点にも留意する必要があると思う。
ちなみに、伝統的権威主義体制に対して、次に述べる民主主義体制と並行して登場した近代的権威主義体制のもとでは、情報や好奇心に対する制限は同様である一方、身分制度に代わる社会体制は能力主義が基本的に採用される。しかし、それと同時に、権威主義体制を指導する人達によって構築された自分たちの存在する意味や価値についての理論体系がイデオロギーとして押しつけられ、それに逆らうことは一切許されないものになる。言い換えれば、伝統的であれ近代的であれ、権威主義体制の社会では、全てがトップダウンに決定されるということである。
では、このような権威主義体制の社会における大人としての人間の要件とは、どのようなものであろうか。わたしが思うに、帰属する集団のなかで、その集団の維持、発展になんらかの形で貢献できる能力を身につけ、その集団のなかでの確固とした立場を獲得していることではないかと思う。そうした立場を獲得することによって経済的基盤をもち家族を養うこともできる。さらに、その集団社会の安定と秩序を維持するために、その集団の存在の意味や価値を、文化や宗教を通して教養としての理解を深め、また時には、集団のために自己犠牲も厭わない覚悟を確認したり、身分制度のもとで付与された身分を甘受し諦念し従事することも要請される。すなわち、メンバーシップ型の参加者としての在り方を確立することが大人の要件と言ってよいのではないだろうか。付け加えれば、高齢者は、集団への帰属意識を保ちながら、第一線を退き、その集団に負担をかけず、多少とも貢献できるように日々心がけるということになるだろう。
3.民主主義体制とは?
では、民主主義体制は、どのようにして登場したのであろうか。それは、やや皮肉なことであるが、一つの権威主義体制のもとで、その権威の唯一絶対的な根拠を徹底して理論武装し、普遍的なものにしようとした努力の破綻からもたらされたのであった。具体的には、中世ヨーロッパの権威主義体制を体現していたキリスト教の普遍化の努力の破綻であった。それは、身分制度のような根拠のない人間差別を取り払い、自然界を純粋な好奇心でみることを可能にした。すなわち、近代民主主義体制と科学技術の進展への道を切り開いたのであった。
こうして登場した民主主義体制は、人間存在の意味や価値を問う取り組みに対しても、抜本的転換をもたらした。すなわち、権威主義体制のもとでは、自らの存在の意味や価値を問うことは、権威を中核的に担う限られた人々によって問われるものであり、権威の存続に好都合なような一つの思想体系として構築されるものであった。それに対して、近代民主主義の体制のもとでは、やや誇張的な表現になるかもしれないが、一人ひとりが自由にゼロベースで自らの存在の意味や価値を問い、それに沿った生き方を生涯にわたり追求することが求められることになったのである。
一人ひとりが自らの存在の意味や価値を問うとは、具体的にはどのようなことなのであろうか。このことに関連して、わたしは以下の三つの指摘をしたいと思う。
第一に、一人ひとりが自由に勝手に、自らの存在の意味や価値を考え追求して、この社会の秩序と安定は保たれるのだろうかという疑問に関連するものである。これは自律分散型の在り方といってもよいと思う。このことがうまくいくためには、状況に関する情報が、基本的に全て、誰からもアクセス可能になることが前提になると思う。特定の権威筋が恣意的に情報を隠蔽するようなことはあってはならない。このことは今日のデジタル技術の進展に伴って実現可能になっていると思う。そして、人間は他者の優れた能力を評価し認める態度を生存本能としてもっていることを認めることだと思う。優れた能力を認め、レスペクトし、その能力がリーダーシップをとり実行されるとき、人々はやらされ感のない適切な自律分散型の社会運営を実現することが可能になる。今流にいえば、ジョブ型の役割を担う社会参加が可能になるということだと思う。
第二に、人間は自分自身だけの他者には入り込まれない独自の世界をもっていることが社会的に認められることである。それは、その人間が関与している集団のしがらみとも一切切り離されたものである。宇宙空間のなかに一人の人間として孤立している存在そのものであり、例えば特定の集団の存続のために自己犠牲を要請されるような一切の利害得失から無縁の存在である。そして、人間はそうした状況にある自己の存在をベースにして、身の回りの状況を判断し対応する能力をもっていることを相互に認め合うことである。
第三に、人間の好奇心は無限のひろがりを対象としていることを認め合うことである。例えば、他の生き物の生態の研究などは果てしない広がりをもつと思うし、この宇宙に物質界が存在している理由といったことも研究が尽きないであろう。わたしたちは、無限の謎に包まれている存在であることを自覚するべきだと思う。このことは、私たちの無限の多様性や個性を受け入れる基盤ともなっている。人間の脳の働きは、私たちの想像を絶する可能性を秘めていて、そういう脳が今現在この地上に約80億も存在し、充分にその好奇心が発揮されていないというのも実にもったいないことだと感ずる。
4.むすび
この地球上に民主主義体制の社会運営が定着し、人間の100年後、1000年後の社会では、一人ひとりが自らの存在の意味や価値を掘り下げ、社会全体にその探究を支援するような仕組みが整備されていることを願う。それによって、全ての人々がやらされ感のない多様性に満ちあふれた豊かな社会が営まれていることを信じたい。
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