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第158号

2023年4月20日

「負けること勝つこと(114)」 浅田 和幸

 

 

 前号で戦後の日本の高度経済成長が成功した後に、日本人は自分たちを「一億総中流」という言葉で表し、日本社会が豊かになったということを確信してきたと書きました。

 実際、わたしが小学生だった昭和三十年代。金沢の街の中に暮らしていたわたしの同級生の多くは、長屋住まいということで、持ち家率は随分と低かったように思います。

 更に、10代の若者たちも、最終学歴は中学校卒業がほとんどで、高校へ進学する生徒は2割程度、況してや大学進学率は、戦前の旧帝大時代と余り変化がなかったというのが現実でした。

 この現実が、日本の高度経済成長を支えた、大量の若年労働者を生み出した土壌でした。農村部に生まれた子供たちは、義務教育である中学校を卒業すると、集団就職と言う形で、都市部の工場等へと働きに出て、その彼らの安価な賃金が、日本製品の安価な価格に反映され、国際競争力を高めることで、日本の高度経済成長は成功したのでした。

 この高度経済成長により、これまで借家住まいだった勤労者は、持ち家を購入できる経済力を獲得し、70年代初頭の郊外の土地開発の進展で、それぞれが一戸建ての住宅を手に入れることが出来るようになったのでした。

 これは全国的なレベルで起こり、その結果、それまで農作地だった土地が宅地化され、モータリゼーションの発達と相まって、郊外へと人々は住まいを求めて広がっていったのでした。新しく生まれた一戸建ての住宅が立ち並ぶ新興団地。こういった風景は日本全国に見られるものでした。

 新しく手に入れた家には、生活を便利にする電化製品が次から次へと導入され、更には、夫が会社で働き、妻が家で子育てをするといった家族モデルが、標準的家族とされ、それが豊かな生活の象徴のように考えられてきました。

 しかし、残念なことに、現在の日本では、夫婦と子供2人の4人家族という所帯の構成単位は急速に減少し、かつての標準家庭というモデルは、現実を全く反映させていません。

 ここに統計があります。人口動態調査によると、1995年から2020年の間に、「単独世帯」は1,124万世帯から1,453万世帯へ、「夫婦のみの世帯」は762万世帯から1,069万世帯へ、「ひとり親と子から成る世帯」は311万世帯から462万世帯まで増加しました。

 一方,同じ期間に「夫婦と子から成る世帯」は1,503万世帯から1,304万世帯へ、「その他の一般世帯」は690万世帯から597万世帯へと減少しています。

 この統計は、現在の日本社会が、若者も高齢者も同様に、単身所帯が増加し、婚姻関係にある夫婦であっても、子どものいない夫婦(これは高齢者の夫婦が増加しているのが主要な原因だと考える)が増加していることを表しています。

 この統計の数字から明らかになることは、平成の始めから令和にかけての25年間の時間の経過は、確実に、日本社会が少子化、高齢化へと速度を速めているということです。

 そして、同時に、かつて、所帯の基本形として考えられてきた夫婦と子供2人といった所帯モデルが減少して、それを根拠にした社会政策を実施していく事が、困難になっているということもはっきりと示しています。

 ここで、もう1つの統計をご覧ください。1986年と2016年を比較した子どもの有無と所帯の児童数です。前者では児童1人所帯は16.3%、2人は22.3%、3人以上は7.7%で、子どもがいない所帯が63.8%でした。それが30年後には児童1人所帯は10.9%、2人は9.4%、3人以上は3.1%で、子どもがいない所帯が76.6%になっています。

 この数字を見ると子どものいない所帯が増えたのと、子どもがいる所帯の中でも、子ども2人の所帯の減少数が目立ちます。つまり、30年前に比較して少子化が急激に進行していると同時に、夫婦と子供2人という所帯モデルが一般的なものでなくなったことを示しています。

 この2つの統計の数字を取り出したのは、わたしたちが体験して来た高度経済成長による右肩上がりで、経済規模が拡大して行くという社会は、21世紀に入った頃には、日本では実現不可能に陥っていたのだということを理解していただきたかったからです。

 残念なことに、わたしを含め人間は、自分が体験したこと、経験したことをベースにした価値観を捨て去ることは難しい生き物のようです。勿論、本を読む、映画を見るといった疑似体験で、想像することは出来ると思いますが、あくまでも想像の域を超えることは無いのが現実です。

 だから、わたしを基準にすれば、同世代、その上の世代、更には下の世代も含め、経済成長を前提とした施策や経営といったものを批判的に評価することは難しいようです。

 それ故、かつて自分たちが体験し、経験したことを脱ぎ捨てて、新たな価値観により、社会を分析し、評価するといった思考方法を敢えて選択しようとはしないのです。その結果、現実に起きている事実を見逃してしまうわけです。

 その現実とは、わたしがこれまでにも書いてきましたように、日本人の貧困化問題です。わたしたちは、高度経済成長により、先進国の仲間入りを果たし、豊かな国になったのだと信じてきました。しかし、それは20世紀までであり、その後は右肩下がりに経済的な豊かさは消えて行き、21世紀に入ってから以降、日本社会の貧困化は確実に進行し、最早、その事実を隠せない程になっているということです。

 今回、この稿を書くにあたって、刺激を受けたものが2つありました。1つは映画であり、もう1 つはインターネットの記事でした。まず、映画から簡単に紹介します。

 タイトルは「PLAN75」昨年に制作された作品です。早川千絵監督の作品で、第75回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門・カメラドール特別賞を授与された作品です。

 倍賞千恵子さんが主演し、受賞後に、日本でも話題になった作品ですが、簡単にあらすじを紹介します。『75歳以上の高齢者に生死を選択する権利を認める制度が施行された架空の日本が舞台です。その制度に翻弄される人々の葛藤を、高齢者と申請窓口やコールセンターの若いスタッフの双方からの視点で描いた作品です。』

 これは、架空の日本という設定にはなっていますが、高齢者の置かれている厳しい経済的環境や住環境といったものには、リアリティがあり、それがこの作品を単なる絵空事に終わらせない力強さを感じました。

 まだ、健康である高齢者が、自らの意思で安楽死を選択する背景には、高齢者の貧困が横たわっているのです。多分、そういった経済的問題が無かったなら、彼らは、安楽死を選択しなかったのではなかったかといった問いかけが、見ているわたしたちに迫って来るのです。

 しかし、これは映画の中の話ではなかったのです。映画を見た同じ頃に、目にしたインターネットの記事。その記事には、2015年に「下流老人」というタイトルの本を出版された社会福祉士の藤田孝典さんへのインタビューが掲載されていました。

 2015年に出版された、「下流老人」というタイトルの本ですが、その時に、「下流老人」という言葉をわたしは初めて知りました。翌年、「続下流老人」が出版され、この2冊の本で、日本に暮らす高齢者の間に、大きな経済格差が生じているということを藤田さんは明らかにしました。 

 そこで明らかになったことは、定年後の年金生活で豊かな老後を送れる人と貧困な生活を強いられる老人の二極化が日本社会で進行しており、このまま政治が手を拱いていれば、今後は、一層貧困化が先鋭化していくという分析でした。

 その藤田さんが、今回のコロナ禍により、格差が一層拡大しており、ご自分が定義した“下流老人”への転落は、誰の身の上に起きても不思議ではない状況にまで至っていることを、インタビューで答えていらっしゃるのでした。

 記事の中で、「生活苦のシニアの数が増えているばかりでなく、その悲惨さの度合いも増しています。特にこの3年のコロナ禍で一気に増え、まるで『シニアの貧困元年』といってもいいくらいです」と藤田さんは語っています。

 実は、コロナ禍でアルバイトやパートの非正規雇用で働く人たちが職を失い、経済的に厳しい状況に陥ったことは、記憶にも新しいことですが、特に、パンデミックにより、ダメージが大きかった飲食業、宿泊業、観光業、サービス業などでは、シニア層が多く働いており、パンデミックの影響をもろに受けたのでした。

 この高齢者の多くは、年金も厚生年金ではなく、国民年金であり、元々貯金も乏しく、高齢になってもなお働き続けざるをえなかった人たちでした。

 それが、パンデミックにより、職を失うことでさらに厳しい状況に転落したというのです。藤田さんは、「もともと苦しいのに、わずかな現金収入すら断ち切られて、一気に高齢の困窮者が膨れ上がりました。人手不足で低賃金の仕事しかなくても、働けるだけマシと歯を食いしばって頑張ってきたのにもかかわらず、です」と。

 また、藤田さんは、「ギリギリまで耐え、にっちもさっちもいかなくなって相談に来るので、今日明日の食事に困る人も少なくないのです。どこで炊き出しをやっているかを教えたり、無料で食料品がもらえるフードバンクを紹介したり。とりあえず温かいものを食べたい、少しでもおなかを満たしたい、という人たちが後を絶ちませんでした」。更に、相談に来た本人自身1円の現金もなく、カンパで集めた現金を渡して当座をしのいでもらうこともあったということでした。

 それでは、現在の日本の高齢者の置かれている実態はどうなっているのでしょうか?データを調べてみると、豊かな老後とはほど遠い高齢者たちの実態が浮かび上がってきました。

 例えば、65歳以上の高齢者世帯の1 年間の所得金額は100万~200万円が最も多くなっています。これは、現役世代の中央値437万円から比較すると半分以下の所得となっています、

 藤田さんによると、「現役を退いたのだから仕方ない、年をとればお金を使うことも少なくなるから大丈夫だろうと思われるかもしれませんが、実は支出は思ったほど減らない。逆に介護費や医療費など、それまではなかった支出が増えます」とのことです。

 現在、日本人の年金支給は65歳からです。この年金制度も、55歳から始まり、60歳と定年が伸びたことで、支給時期も5年間伸び、定年後直ぐに年金生活に入るというのが、団塊の世代の常識でしたが、その後、定年は60歳のまま、年金支給年齢だけが延伸され今日に至っています。

 そして、年金だけで暮らせる人は年々減っているのが現実です。男性では65歳を過ぎても6割以上の人が働き、男女合わせると、70~74歳の高齢になっても働いている人たちが、全国的に3割強を超えているというのが実態のようです。

 藤田さんは、「こんなにシニアが働いている国は珍しい。他の国は社会保障が充実していて、老後はあくせく働く必要がありません。日本は年をとっても働かないと生きていけない国になっているのです」と語っています。

 勿論、高齢になっても仕事ができるほど健康で、社会参加の意識も高く、いきいきと日々を過ごせているというのなら、この働くということは幸せなことだと思います。

 しかし、実際のところ、上記の数字は高齢者が意欲的に「働きたい」というよりも、「働かざるをえない」、そうしないと生活していけないという切迫した状況を示していると考えた方が良いように思えます。

 ここで、現在の日本社会において、藤田さんが指摘する「下流老人」が増加している原因について考えて見たいと思います。1つには、高齢者の寿命が伸びたということです。現在、日本では「人生100年時代」などと言われていますが、この年金制度が始まった昭和の時代、男性の平均寿命は60歳辺りでした。

 定年後に、せいぜい10年程度の余命があるという前提で制度設計がされているということについては、以前もここで書きましたが、それが20年以上伸びたというのが現在です。だから、当然、年金だけで暮らすということには無理が生じてきます。

 2つ目としては、圧倒的に年金額が低いということです。大企業などに勤務していた会社員には、厚生年金と企業年金といった高額な年金を手にするチャンスはありますが、そうでない大部分の会社員は、自らの給与を基準にした厚生年金と現在は国民年金(基礎年金)が合算されたものが支給されていますが、上記の様に現役時代の半分以下の金額でしかありません。

 更に、女性の場合はもっと悲惨です。所帯モデルの際に書きましたが、女性は専業主婦として家庭で暮らし、夫の扶養家族となることが求められ、年金は国民年金だけに限定されてきました。その上、子育て後に働きだしたとしても、夫の扶養家族から外れることは税制上不利と言う理由から、厚生年金を掛ける必要のないパートタイマーなどの職種に就くことがほとんどでした。

 つまり、老後の夫婦には、夫の厚生年金と妻の国民年金を合算したもので暮らしていくというモデルが一般的であったというのが昭和の時代のスタイルだったのです。

 但し、今書いて来たことは夫が会社員であることが前提でした。自営業者など個人経営者の加入できる年金は国民年金だけであり、自営業の夫と妻は個人年金に加入していない限り、年金支給は国民年金と言う夫婦がほとんどです。そして、国民年金の平均受給額は5万円ということであれば、夫婦2人で年金は10万円ということになり、とてもこれだけで生活を維持していけるレベルには届かないというのが現実です。

 その結果が、多くの高齢者が年金だけでは暮らせず、条件の厳しい非正規労働に甘んずるしかないという実態が浮かんできます。実は、日本の年金は「人口が増え続け、経済が成長すること」を前提に作られてきました。

 ところが、少子化が進行し、日本経済が長く停滞の時期に陥り、経済が伸び悩んだ結果、支給年齢も上がり、支給額も物価スライドさせないといった制度の改悪が実施されたのでした。

 ところが、国民健康保険や介護保険の保険料や税金は毎年のように上昇するため、高齢者の家計はその度に圧迫され、この傾向は、低年金であればあるほど影響が大きいのです。

 藤田さんも、「会社員の夫と専業主婦の妻という平均的な老夫婦の厚生年金受給者でも、年金だけで食べていくのは難しいのが現実です。ましてやこのモデルから外れた人たちはさらに低い年金額で苦しんでいる。」と指摘されています。

 ここで、働くシニアが置かれている労働環境が極めて厳しいことを労災事故における高齢者の割合から見ていきたいと思います。2021年、労働災害で亡くなった60歳以上の高齢者は360人です。この人数は、この年の労災死亡者総数の43.3%に上るということです。単純に考えれば、日本全国の労災死亡者の4割強がシニアの労働者であるということです。

 藤田さんは「それも、労災による死亡事故そのものは減少傾向にあるにもかかわらず、です。全体では減っているのに高齢者の死亡事故だけが増えているのは、まさに異常な状態。いかにシニアが過酷な労働現場に追いやられているかがわかります」と。

 ここで労働者の「定年」ということを考えて見たいと思います。この制度は、人間が年を取ると身体的、精神的な不具合から、注意力や意欲が低下し、労働現場で事故やミスが生ずる確率が高くなるので、ある年齢に達した場合、仕事を引退してもらうという制度だったはずです。 

 ところが、現在の日本では、そういった理由で一度仕事から引退した高齢者が、再び、危険な現場や職場での勤務をやらざるを得ない、そうしないと暮らしていけないという実態があるということになります。更に深刻な事態とは、本人が意識的に労災を申告しないケースも少なくないと言われていることです。

 藤田さんも、「ほとんどが非正規雇用ですから、身体が万全でないことが知られてしまうと、雇用主から『もう無理じゃない? 』などとやんわり退職を迫られることもある。 本来なら雇用主は働く人の健康状態を把握し、安全に配慮しなければいけないのに、実態はまったくの逆なのです」

 この結果、仕事を失うことを恐れ、労働者として当然所有している権利を行使することに躊躇う高齢者。その高齢者の躊躇いを利用して、低賃金で劣悪な環境で労働させている雇い主。

 まるで、マルクスが生きていた19世紀のロンドンのような労働環境が、21世紀の日本社会に残存しているということを、わたしたちは一体どう考えれば良いのでしょうか?

 そして、日本の賃金が上がっていかない元凶は、こういった使い捨ての安価な労働力である高齢者等を、エッセンシャルワーカーとして雇用し、彼らが労働環境への改善などを求めることのないことを良いことに、放置して来たことだと改めて感じるのです。

 それでは、こういった困窮する高齢者を救うための最終的ネットワークが何かと言うと、それは「生活保護」ということになります。実際、生活保護を受けている世帯の55.8%が高齢者世帯であり、その約半分は高齢者のひとり暮らしです。

 ただ、この数字も決して正確に実態を反映したものではないようです。それは、本来受給資格があるにも関わらず、需給していない人たちが4倍近くいると言われています。

 それでは、何故そんなにも多くの人たちが救済制度から漏れているのでしょうか?それは、日本の高齢者たちが、生活保護に対して過剰な羞恥心を抱いているからのようです。

 藤田さんもこう言っています。「『生活保護』は恥ずかしい、国の世話になるのは申し訳ない、と思っている人が多く、とりわけシニアはこの意識が強い。結果、生活保護基準以下でも我慢しながら暮らしている人が本当に多いのです。大げさではなく、朽ちかけた家に住み、庭で野菜を育てながら自給自足でなんとか食いつないでいる人もいます」 

 また、「年金をもらっていたら生活保護は受けられない」などと言った誤解や噂などを事実だと信じている人も多く、「生活保護にはネガティブな噂がついてまわってなかなか払拭されず、そのため必要な人に浸透しないのが問題です。」とも語っています。

 それでは、年金は減り続け、保険料、医療費、そして今や電気、ガスなどのインフラまで上がり続けている現在。高齢者の貧困をどう止めて行けば良いのでしょうか?

 藤田さんは1つの解決策として、「我慢して働き続ける、他者を頼らないというのが日本人の美学ですが、我慢強いのも善しあし。自分だけでなんとかしようとせず、使える制度は使っていくということが大事。お金で絶望的になる人が多いのですが、お金がないというだけで生きていけないわけではないんです」

 実は、わたしたち昭和生まれの人間は、こういった刷り込みを小さい頃から植え付けられて来ました。特に、男性はこういった美学を強制されてきたように思います。 

 多分、貧困で苦しんでいる人たちは、知らず知らずに、自身の貧困の原因を、社会の問題であるというより、自分の無力さ、ふがいなさのせいだと考え、政府や政治に抗議するのではなく、自分を責めることで諦めがちです。

 こういった日本人の生活保護を受給することへの羞恥心と政治に対しての抗議より自分自身を責めるといった考え方が、高齢者の貧困を増長し放置されてきた大きな要因のようにわたしには思えます。

 そのことは、映画「PLAN75」でも描かれています。主人公の高齢女性は、ホテルでのパートタイムの仕事を切られ、経済的に行き詰り、長く住み慣れた住まいを退出せざるを得なくなります。不動産業者に相談すると、生活保護を申請し、受給することが出来れば、新たな住まいに移れることを知らされます。

 しかし、彼女は、最終決断として、生活保護へと助けを求めずに、安楽死を選ぶ施策への応募に踏み切るのです。そこには、藤田さんの言う、生活保護への羞恥心が大きく影響しているのでしょうか。

 それについての説明はありませんが、多分、彼女の人間としてのプライドが、生活保護を選ばなかったようにわたしには思えました。

 ところが、日本以外の国では状況は異なっています。例えば、フランスでは現在、年金受給年齢を引き上げるといった政府方針に対して、全国でデモが行われ、今朝(3月17日)のネットニュースには、花の都パリが、ゴミ取集労働者の大規模ストにより、ゴミの都と化しているとの報道がされていました。

 つまり、日本以外の国々では、政府の施策に不満を抱く、或いは、反対を表明したい場合は、ストライキや街頭デモなどの示威行動により、それを表現することが定着していますが、日本においては、ストライキや街頭デモは、なにか特別なことであり、それをすることに抵抗感を抱く人たちが多いようです。

 数年前、北海道で、安倍元総理大臣が、街頭での選挙演説を行った際、それに対して反対の声を上げる、あるいは批判的な野次を飛ばすなどした一般の人が、警察官に阻止される事件が起きました。

 その際、街頭において、暴力ではなく、言葉でもって政治家を批判することが犯罪の様に取られ、警察官がそれに対してなんの疑問も無く阻止したことに驚いたことを覚えています。

 政治的な発言を公の場所で行うことへの拒絶感、忌避感情が、これほどまでに深く定着し、そういう行動を許さないといった風潮が生まれたのは、わたしが経験した大学生を中心にした60年代から70年代初頭に掛けて全国的に戦われた学生運動が連合赤軍事件で崩壊していった結果だったように考えています。

 それまでは、政治的な発言をすることは国民として当然の権利であり、そういう表現の自由を束縛することは許されないことだという共通認識がありました。それが、「過激派」と呼ばれた連合赤軍事件を境にして、はっきりと変化したように思います。

 勿論、連合赤軍が起こした仲間内でのリンチ殺人や銃を奪っての殺人事件が許されるものでないことは明らかです。但し、手段は間違っていたとしても、政治に対して、権力構造に対し異議を唱えることは間違ったことではなかったはずです。

 ところが、手段だけでなく、目的までもが否定され、非難されるといった現象が社会全般に生じて行き、その後、政治的な発言を控える、デモやストライキといった示威的な行動を禁止するような同調圧力が社会を覆うことになったようです。

 その結果、社会構造の狭間の中で貧困を強いられることとなった人々は、政府への抗議行動を行うより、自分自身を責め、貧困に甘んじて生きて行かざるを得ない状況が生まれているのです。

 この状況は、マルクスが生きていた19世紀の労働者の姿に重なって見えてこないでしょうか?当時は、資本家の力が強く、労働者は「働かせてもらっている」といった弱い立場にあり、それが、労働者の貧困を生み出していたのでした。

 その現実に対して、マルクスは、それが「資本」によって運営されている社会、資本主義社会が引き起こした社会問題であることを分析し、それを改善する手段としての社会主義を標榜したのでした。

 ただ、以前にも書きましたように、マルクスの時代の社会主義はさまざまな考え方が玉石混交の様に混じり合い、ある意味混とんとしていた中で、マルクスは科学的社会主義を宣言することになったのでした。

 それが現在にまで続いている社会主義のメインストリームになったのは、マルクスが資本によって運営されている資本主義社会に対して行った分析が極めて精緻であり、本質をはっきりと捉えていたことによるものだったとわたしは考えています。

 残念ながら、前号でも指摘しましたように、マルクスの予想と異なり、資本主義経済が成熟していなかったロシアや中国での社会主義革命と言う実験の失敗により、社会主義自体が否定されたことは残念なことと思っています。

 しかし、上記に述べてきましたように、現在の日本社会の貧困の問題を解決するためには、もう一度、マルクスの社会主義へと立ち返ることが必要だというわたし自身の認識にブレはありません。

 正直なところ、映画「PLAN75」は、決して架空の日本の話とは思えなかったのです。藤田さんが定義した「下流老人」が増大していることは、統計の数字がはっきりと示しています。

 更に、少子化は政府が予想していた数字を上回るスピードで進行し、将来、様々な分野で職業の担い手不足が顕在化することは、確実になっています。例え、AIによるサポートが進み、労働力不足を補うことがあったとしても、人口が、特に若い人口が減少していくことを止めることは出来ません。

 その中で、高齢者と若い世代が、対立し、憎悪するといった関係にならず、共存しながら平和に暮らしていくためには、これまでの経済規模を拡大し、それにより豊かな社会を実現するという経済政策では、実現不可能であることも、この10年余り続いた「アベノミクス」の失敗で見えてきています。


「問われている絵画(149)-絵画への接近69-」 薗部 雄作
「民主主義は権威主義に勝てるか」 深瀬 久敬
【編集あとがき】
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編集発行:人間地球社会倶楽部

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