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第158号

2023年4月20日

「民主主義は権威主義に勝てるか」

深瀬 久敬

 

 ⑴現在の地球社会の概観的状況

 今日、わたしたち人類は、数十億年の地球の歴史のなかで、現在を人新世と呼ばせるほどに、わたしたち人類の地球上での存在感を増大させ、それに伴い様々な地球規模の課題を顕在化させつつある。例えば、石炭や石油をエネルギー源として大量に消費することに起因する地球温暖化、森林破壊や食糧資源の乱獲や大量の産業廃棄物に起因する環境汚染や生物多様性の棄損、生命科学や人工知能などの科学技術の急激な発展に起因するその応用の倫理性や地球社会の在り方への影響、グローバリゼーションやネット社会の急速な浸透に伴い拡大する移民問題、差別、格差の問題、などが指摘できると思う。

 そして、こうした課題は、シンギュラリティーとかティッピングポイントと呼ばれているように対応が遅れると取り返しのつかない事態を招く可能性が指摘され、人類全体が総力をあげて取り組むべき差し迫った課題になっている。にも関わらず、今日のわたしたちの世界は、権威主義国家と民主主義国家の対立という深い亀裂のなかで、その効果的な対応に着手することができないでいる。ウクライナでは、着手どころか、大規模な破壊と殺戮という信じがたい蛮行が繰り広げられている。

 

 ⑵権威主義と民主主義の誕生の経緯

 そこで、まず権威主義国家と民主主義国家の誕生の経緯をふり返ってみたい。

 権威主義は、人類が大規模な集団生活を秩序と安定を保ちながら営むために見いだされた画期的な智恵である。宗教や神話をもとに、全員が一つの権威を共有し崇め服従し、内部では分業体制に基づく安定と効率性を担保し、他方、外部に対しては一つの主体として結束し、武装し他の主体との戦争を厭わない。

 一方、近年になって、権威主義の集団が権力の基盤としている権威そのものの論拠に異議申し立てをする思想が現れた。具体的には、当時のヨーロッパで権勢を誇ったキリスト教の教理の普遍化を目指したスコラ哲学の行き詰まりのなかから誕生した。その思想は、それまでの権威が信じて疑うことを規制していたあらゆる因習を撤廃し、自然界の現象をありのままに観察することを可能とした。そこから科学を誕生させ、さらに、生まれながらの階級的差別を否定し、人間の自由平等を自明のものとすることから個々人の尊厳を第一とする民主主義を誕生させた。

 

 ⑶民主主義による近代化の流れ

 権威を否定する科学と民主主義は、人類の近代化のエンジンとして機能し、科学革命や産業革命をもたらし、医療や重化学工業などの進展を通して人類に絶大な物質的豊さや便利さをもたらした。民主主義の思想は、権威主義との一進一退を繰り返し、スムースに浸透することはなかったが、歴史の偶然としてアメリカ合衆国という新興の大陸国家が、ヨーロッパ諸国からの大量の移民によって形成され、それが民主主義を理念として建国されることに起因して、民主主義の優位性を格段に進展させた。

 因みに、第一次世界大戦は、民主主義の先進国としてのイギリスやフランスに対して後進国ドイツが植民地地域の不服申し立てをした構図であり、第二次世界大戦は、同様に、民主主義の先進国イギリスやアメリカに対して、後塵を排したドイツ、イタリア、日本が異議申し立てをした構図が見えると思う。

 また、共産主義は、近代民主主義の内部矛盾(資本主義における資本の流れのアンバランス)を捉えてマルクスによって構築された思想であり、個々人の経済的平等や環境問題への配慮を掲げてはいる。しかし、個々人の自由や尊厳への視点は重視されていなかったように思う。したがって、ロシアや中国において、既存の権威主義の帝国を転覆し、新たな先進性を帯びた共産主義というイデオロギーを掲げた装いを新たにした権威主義国家の誕生をもたらしたように思える。

 

 ⑷権威主義と民主主義の社会における個人の在り方

 次に、上述した対比を踏まえて、権威主義と民主主義の社会における一人ひとりの個人の在り方について踏み込んで考察してみたい。

 権威主義の社会のなかの一人ひとりの個人は、生きる意味や価値を自問する必要はない。なぜなら、権威が、宗教や神話やご用学問などを通して、アイデンティティーを含めて規定するからである。身分制度として具体的生き方や社会的位置づけまで規定したりもする。一つの集団としての安定と秩序が最優先されるため、集団のための自己犠牲は愛国心などとして美化され称賛される。また、権威は、娯楽を含む生活基盤を一人ひとりに供与し、個人はそれに甘んじている限り安定した生活が保障されるが、言論統制や監視体制などを通して、それに異議を唱えたり、勝手な好奇心を行使したりすると摘発され処罰の対象になりうる。社会の安定と秩序を維持するために、多様性ということも制限される。

 他方、民主主義の社会では、一人ひとりの個人が、自らの存在の意味や価値と自分自身の問題として向き合う必要がある。そのために自らの置かれている状況を自分自身で調べ確認し、自分自身の価値観や意味に基づいた行動を採ることが要請される。どんなことに好奇心を向けてもよいが、全体の在り方を踏まえた自律性をもつことが求められる。こうした一人ひとりの自律性に基づく在り方は、互いにそれぞれの尊厳としてその人のオリジナリティーの多様性のもとで尊重される。そして、社会全体の運営は、憲法によって宣言された共有すべき基本的価値のもとで、立法、司法、行政といった役割に応じた相互牽制機能をもつ分権体制で行われることを基本とする。

 

 ⑸民主主義における社会の安定性の吟味

 民主主義は、個々人の尊厳をオリジナリティーとして尊重し、好奇心に基づく自由な世界の探究を可能としている。そして、個々人は、自律性を備えて社会全体の在り方に、それぞれのやり方で寄与していくことが求められる。このような民主主義の考え方で、社会全体の秩序と安定生が本当に確保されるのかという課題について、1)学問の在り方、2)自律性の担保、3)もつこととあることの価値観、という三つの観点から考察してみたい。

 

 1)学問の在り方

 権威主義のもとでの学問は、基本的に形而上学である。すなわち、権威を正当化することや人々の心の安寧に寄与することを第一義としている。したがって、それには人間への深い洞察が掘り下げられ、社会全体の在り方への様々な配慮がなされている。

 一方、民主主義のもとでの学問は、徹底した客観に基づく観察の結果の説明性にある。そして、その説明は、あくまでも部分的なものであり、正当と捉えられる範囲の評価が常についてまわる。私たちの探究心、好奇心の向かう先は、宇宙空間から量子や生命の世界まで無限の広がりを持ち、私たちの好奇心は止まるところしらない。そういう覚悟を肝に銘ずるべきだと思う。

 近年、権威主義の体制のもとで民主主義の国から科学技術を模倣し導入し、さらに発展させようとする試みがさかんである。このことに関して、権威主義のもとでの科学は 権威の規定する価値観によって歪んだものにならざるをえないということに留意すべきである。

 

 2)自律性の担保

 民主主義のもとでは、一人ひとりの自律性が前提とされる。自律性は、その人がその人なりに自分のおかれている状況を観察し理解し、それを踏まえてその状況にその人なりの価値観に基づいて対応することを意味する。

 こうした個々人の自律性を健全に育成するためには、状況に関する情報がオープンであること、そして、それぞれの人が互いのオリジナリティーをリスペクトする姿勢が保持されなくてはならない。セクハラのような敬意を欠く態度や相手を子供扱いする態度やLGBTのような少数者を差別するような態度は、自律性を損なうものであることに注意すべきだと思う。

 

 3)もつこととあることの価値観

 権威主義のもとでは、社会全体の在り方を規定する価値観は権威によって与えられる。そして、もつことについては、その体制の安定を計るうえで二の次にされ、欲望の赴くままに行動することは一般的にたしなめられる。

 一方、民主主義のもとの科学技術は、人間の欲望の対象である便利さや快適さを追求することに歯止めがかかりにくいという課題を抱えている。こうした物質主義的な欲望の暴走は、自律性の適切な発揮によってコントロールされるべきである。一人ひとりのウェル・ビーイングを高める姿勢が普遍化することが大切なのだと思われる。

 

 ⑹ 中国、米国、日本の状況の分析

 上述の論考を踏まえて、中国、米国、日本の状況をどのように捉えたらよいのか、検討してみたい。

 

 1)中国の状況

 今日の中国は、かつての日本が明治維新から大日本帝国を指向したのと同じような状況にあるように思われる。すなわち和魂洋才のもと、西欧社会から科学技術や殖産興業を学び、大東亜共栄圏の建築を目指したのと同じように、中華帝国の復興のもと、中華思想を軸に、欧米社会から先端技術の導入を大々的に推進し、それをベースに世界の工場としての立場を築き、一帯一路とか、アフリカや南シナ海やソロモン諸島などへの進出を図っている。かつての日本が指向した拡張主義にあまりに酷似していると言えないだろうか。確かに、今の中国は、米国に次ぐGDPを誇っているし、科学技術の成果も着実に増やしてはいる。

 こうした中国が今置かれている状況は、ロシアや北朝鮮への支援を含め、その強引さゆえに西欧諸国から強い反発を受けており、次第に、先端製品の輸出規制や知的財産へのアクセス制限などの制裁を受けようとしている。

 わたしは、こうした中国の在り方は、いつかは破綻するように思う。中国内部には、極端な貧富の格差、理不尽な戸籍制度、土地所有制度、急速な高齢化、少数民族問題などを抱えているが、本質的には、近代学問への取り組み姿勢の欠如によって破綻するのではないかと推測する。

 近代学問への取り組み姿勢の本質は、先に述べたように徹底した客観性にある。自由な好奇心に基づいてあらゆる疑問の解明に取り組む姿勢である。こうした姿勢は、権威主義の社会では権威の都合に基づく様々なしがらみのもとで必然的に歪まざるをえない。これはある意味で、いびつな科学技術やその成果を生み出す可能性をもち、空恐ろしいことではあるが、基本的には自らの滅亡を導くものだと思う。

 

 2)米国の状況

 アメリカ合衆国は、16世紀以降、主にヨーロッパからの大量の移民によって建国された新興国家である。イギリスからの独立戦争、先住民との土地所有権を巡る争い、アフリカから奴隷として強制移住されたアフリカ系の人々の処遇を巡る内戦(南北戦争)などを経て、太平洋岸に至るまでの広大な国土を確保した。そして、イギリスやフランスからの移民を中心に民主主義を憲法に明示する国家として、人種、民族、国籍など多様な人々によって構成される多民族国家として運営された。

 人種差別、富裕者と貧困者の格差、銃砲の氾濫などに起因する治安問題、などを抱えながらも、第一次、第二次世界大戦を通して、世界屈指の工業生産力をもつ超大国となった。さらに、一人ひとりの多様な個性と自由を尊重したことによって科学技術でも世界の先端を走ることになった。

 付言すれば、アメリカ合衆国は、キリスト教や共産主義に関して極端な原理主義に走ったりする傾向もあるが、世界中の人々が受け入れる普遍的な価値の追求を、学問の客観性や個人の自律性を通して推進してきたのだと思う。それは、民主主義の前提となる側面を、模範的に対応し、実現してきたと言えるだろう。

 アメリカ合衆国は、新たな先端科学技術や新たな生活上の価値観を追求する世界のフロンティアとして存続してきた。こうした立場を、今後も堅持し続けるであろうし、米国はそうすることによって国家としてのアイデンティティーを保持し続けることができるのではないかと感ずる。しかだって、そうしたフロンティアの開発探究という側面を中国に明け渡すことはありえないのではないだろうか。

 

 3)日本の状況

 日本は、権威主義国家の体制を持ちながら、欧米の民主主義国家から科学技術を模倣導入し、富国強兵、殖産興業を成功裏に推進したアジアの初めての国となった。そして、満州帝国や大東亜共栄圏などと身の丈を知らないまま突き進んだ結果、第二次世界大戦によって国土は焦土と化し完敗した。その後、米国の主導のもとに、農地改革、労働組合法、女性参政権、戦争放棄などを含む先端的民主主義の憲法を戴く国として再スタートすることになった。鬼畜米英と叫んでいた人々が一夜にしてマッカーサ元帥を天皇より上に仰ぐようになったのは、「欲しがりません勝つまでは」などの標語の虚しさが身に沁みていたせいなのであろうか。確かに、明治維新のころから、自由民権運動、大正デモクラシー、民本主義、天皇機関説などの思想はあり、民主主義についての理解はないではなかったが、国民一人ひとりにまで民主主義の基本理念がどこまで浸透したのかは疑問に思う。

 その後、朝鮮特需や米ソ冷戦構造などの影響、戦前からの官僚主導の産業育成策の成功、もともとの勤勉な国民体質、などによってエコノミックアニマルと呼ばれたりしながらも、経済大国として世界の脚光をあびたりもした。

 しかし、土地神話やバブル経済の崩壊を機に「失われた30年」などと呼ばれる長い低迷を続け、世界における存在感は低下の一途をたどっている。こうした状況について、わたしは、日本の社会にはまだタテ社会の権威主義の意識が根深く残り、一人ひとりのオリジナリティーを相互にリスペクトする民主主義の根本が浸透していないことがその基本的原因ではないかと感ずる。学問の客観性、研究開発の客観的な評価、一人ひとりの自律心の尊重など、まだまだ真に身についたものになっていないのではないだろうか。脱皮するための適切な工夫と一大努力の必要が今こそ叫ばれなくてはならないと思う。

 

 ⑺まとめ

 権威主義の国家を牛耳る権力者たちは、自分の国のやっていることこそ国民全体の幸福を目指す真の民主主義であり、アメリカ合週国の人種差別や巨大な格差や銃撃事件の多さなどを指摘し、ああいう民主主義は時代遅れのものだ、といった指摘をすることがある。他方、権威主義の国家のなかでは、民主主義の根幹にある一人ひとりの人間の尊厳や自由、そして、学問の客観性や一人ひとりの自律性の大切さなどについては、一切、教えず、権威の提示する価値観を唯一の真理として受け入れることを要請する。権威主義国家と民主主義国家の対立の根は深そうである。

 こうした対立は、この20~30年が山場となるのではないだろうか。そうした中で日本の社会は民主主義国家としてどこまで変貌できるだろうか。ウクライナ戦争の結果も影響してくると思う。権威主義国家を民主主義国家にスムースに移行させるためのプログラムの作成ということも大切になるように思われる。


「負けること勝つこと(114)」 浅田 和幸
「問われている絵画(149)-絵画への接近69-」 薗部 雄作
【編集あとがき】
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編集発行:人間地球社会倶楽部

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