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第159号

2023年8月5日

「負けること勝つこと(115)」 浅田 和幸

 

 

 岸田総理大臣が言い出した「新しい資本主義」いったキャッチコピー。安倍元首相の「アベノミクス」に対抗して、なにか新しいことに挑戦するぞといった雰囲気を醸し出そうとしていると見るのは少々辛辣な見方でしょうか?

 いずれにしても、目の上のたん瘤だった安倍元首相が亡くなったことで、これまで「アベノミクス」を継承していくということで、党内のバランスを図って来た岸田首相が、漸く独自の路線をアピールできると考えた結果かと思います。

 ただ、「新しい」などという凡庸な言葉を選択した時点で、この言葉に込められた内容については、詳細に分析するまでもなく、ほとんど中身のない平凡なものをわたしは想像しています。

 正直なところ、この「新しい資本主義」という言葉には、岸田内閣のキャッチフレーズを借りれば『異次元の違和感』を覚えてならないのです。それというのも、「資本主義」に新しいとか古いとかという時間的な比較を設けることへの違和感です。

 わたしが理解している「資本主義」とは、「資本が増殖していくことで経済が成長していく仕組み」という極めて単純なものです。多分、経済学者の方たちは、もっと複雑な定義をされることと思いますが、わたしの認識はその程度のものです。

 そして、それは、資本主義が始まった当初(正確にいつかはわたしは断定できませんが)から現在に至るまで、この点に関しては不変であるということもわたしの「資本主義」への認識となっているのです。

 ここから導き出される「資本主義」は、経済の成長を止めることが出来ない経済システムであり、経済成長が止まった時に、資本主義は終焉するということでもあります。

 こういう資本の盲目的な運動を、古いとか新しいとか言ったことで区別をすることにどういう意味があるのだろうかと、わたしはこの言葉を耳にした時から疑問に感じていました。

 そこで、「社会主義」について検討していく前に、もう一度。自明の理と思われている「資本主義」について初歩的なことから考えてみて、それが発展してきた経緯とこれからどのような方向へ向かって行こうとしているかを考えて見たいと思いますので、お付き合いいただければ幸いです。

 さて、この資本主義ですが、人類の歴史の中では、それ程古い社会システムではありません。世界史の教科書などでは、資本主義が生まれた時代は16世紀辺りのヨーロッパと表記されています。

 それまでの、ヨーロッパは、世俗的権力である国王と宗教的権力である教会による支配が一般的で、この2つの権力が、土地を支配し、そこで農耕を行う農民たちから富を、独占的に収奪し所有するという封建制が政治経済の制度でした。

 勿論、商業などお金を扱う人間は存在していましたが、そういう金銭を扱う人間は卑しい存在として差別されていました。特に、キリスト教徒は、そういう賤業に就くことを不名誉なことと感じ、封建制度の時代においては、もっぱらユダヤ人が金銭を扱う仕事に従事していたようです。

 その事情を、シェークスピアは戯曲「ベニスの商人」で描いています。血も涙もない冷血漢のシャイロック。彼はユダヤ人であり、この戯曲の中では悪役として描かれています。

 しかし、冷静に眺めて見れば、彼に借金をして返せなくて踏み倒そうとするアントーニオ―の方が、現代の法律に照らせば犯罪者ということになり、逆に、金を貸したシャイロックは被害者として同情されてしかるべきです。

 ところが、戯曲の中では、彼は我利我利亡者の人非人ということで、最終的には裁判でやりこめられてしまうのでした。つまり、ここには、当時のヨーロッパの人々のユダヤ人に対する嫌悪感が根底にあり、それをシェークスピアも利用していることになります。

 いずれにせよ、金に拘ることは宗教的にも倫理的にも罪悪であるという考えが当時の主流であり、現在のような資本主義経済を是とするような社会ではなかったということです。

 それが大きく変化したのは、ドイツで起きた宗教改革だったとわたしは考えています。免罪符をローマ教皇府が資金源としていたことに対して、ドイツの司祭ルターが反旗を翻したのが宗教改革であると歴史の教科書で習いました。

 多分、わたしを含め大部分の日本人は、グーテンベルグの活版印刷術とルターの宗教改革が、封建制度を打破し、新しい近代社会をヨーロッパに齎したと理解しているようですが、実は、宗教改革による変化の第一は、宗教そのものではなく、経済にあったという事実を、余り認識していないように思います。

 確かに、ルターの宗教改革によって生まれた新教徒=ピューリタンと従来のローマ教皇を頂点としたカソリックの対立が激化し、カソリックの中にもイエズス会といった新たな宗教運動によるヨーロッパを二分した宗教戦争の方についつい目が行きがちですが、その後の歴史を眺めて見ると、宗教より経済の変化に与えた影響の大きさの方に驚かされるのです。

 これについては、ドイツの思想家マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1905)で詳細に分析しています。

 この本でウェーバーは、新教徒のピューリタンが求めた「世俗の富の蓄積を慎むべきである」という姿勢が、一見すると資本主義に反しているように見えながら、実は、この精神こそが富の蓄積の推進力となり、やがて、それが資本主義をヨーロッパ社会に齎したと説いたのでした。

 それまでは、カトリックの方が、世俗的な富の蓄積に関しては寛容であり、浪費などを許容して来た伝統があったため、カトリックの倫理の方が、プロテスタントのものより、資本主義に親和性があったと考えられてきました。

 それに対して、ウェーバーはプロテスタントの教義では、「卑しい地位に留まり、世俗の仕事と義務に専念しなさい」と説いており、教会にはカトリックのような階級構造もなく、上昇志向や富の蓄積を志向する動機が無いことにより、逆に、「働くことで蓄積する」倫理を生み出したと説いたのでした。

 これは、プロテスタントのカルバン派が説いた、「天職」への専念による「神々しさ」を齎す倫理をベースにしており、結果的には、カトリックよりも生産性の高い社会を作り上げたというのです。

 そして、この倫理が資本主義の精神を生み出し、その結果、人々に、自分の仕事に専念し、誇りを持つことで、高い生産性を可能にした生き方を齎したと分析しました。

 このウェーバーの知見は、ヨーロッパにおいて、資本主義が進展した地域と重ね合わせて見る時、一つの傾向を見出すことが出来るようですが、それで全て説明できるわけではありません。ただ、宗教的思想が経済活動に与えた影響の大きさと言う点では、わたしたちはもっと関心を寄せて良いように思います。

 ここでわたしたちが忘れてならないのは、プロテスタント社会の生産性の高さが、消費やぜいたくと言った世俗的な富を誇示することを罪とする倹約志向をもう一本の柱にしていることです。決して、現在の様に消費を美徳として積極的に推進するものではなかったと言う点です。

 初期のプロテスタントにとって、神から与えられた自分自身の使命を全うするということが、天職である自分の仕事に全力で向き合い、日々、成果を達成していくことを意味していたとするなら、そこで獲得した富を、自身が浪費するということは許されないことだったに違いありません。

 だから、獲得した富を浪費せずに蓄積していく事が可能だったわけですが、そのうちに彼らは、蓄積した富を何に使っていくのかという問題にぶち当たったことでしょう。自分のために、或いは家族の為だけに浪費しないという倫理観がある限り、必ずこの問題に向き合わざるを得なくなってきます。

 多分、2代目、3代目と、時間が経過していく過程で、蓄積した富は増殖し、初期の信者の倫理観と相反するような事態に立ち至ったのではないかとわたしは推測します。

 そして、この時間の経過と呼応するように、封建制度を基盤にしたこれまでの国家構造に変化が生じてきました。フランスで18世紀の末に起きたフランス革命は、それまで王権と宗教権に支配されていた国の在り方を変える衝撃をヨーロッパ社会に齎しました。

 イギリスでは、フランスに遡ること1世紀前に、王権の恣意的な権力を抑制する「清教徒革命」や「名誉革命」が起こっており、あらたに生まれた「市民」の力の台頭が顕著なものとして、人々に理解されるようになっていました。

 こういった社会制度の大きな変化の中で、富を蓄積した新たな集団が誕生し、その集団の意向を受けて、政治・経済が運営されて行くという、現在の社会の姿の原型が出来上がる中で、初期のプロテスタントたちが抱いていた倫理観も変質していくことになったのだとわたしは理解しています。

 更に言うと、資本の運動を個人が抑制することが出来ないことも重要な要素になっていると思います。つまり、ひとたび、資本主義が開始されれば、個々人の思惑などと言う次元を超えて、資本の働きは止めることが出来なくなるということです。

 この文章の最初に書きましたように、資本主義とは「資本が増殖していくことで経済が成長していく仕組み」だからです。ひとたび動き出した資本の増殖を止めるには、事業が倒産または破綻しない限り無理だということです。

 いずれにせよ、初期のプロテスタントたちの価値観は、資本主義社会が進展していくと同時に、宗教的な教義による縛りも薄れていくことと相まって、現代のわたしたちにとってなじみの深い、消費は美徳であり、大量生産による消費の拡大が、経済成長を促し、人々に豊かな生活を齎すという思想へと大きく変質を遂げることになったのでした。

 これは、資本主義社会を考えていく上で、とても重要なことと思います。何故なら、資本を蓄積していく際には、生産性の高さだけでなく、得られた富を野放図に消費するのではなく、極めて厳格に倹約し、質素な暮らしを送る必要性を指し示しています。

 つまり、カトリックの様に、生産した富を蓄積することなく、順次消費して行けば、消費は活発になっても、資本の蓄積は無く、欲望はあっても、それ以上の消費に対応できない状況となり、資本主義が生まれて来るには、長い年月が必要となったことになります。

 その課題を解決したのが倹約であり、資本の蓄積であったということは、最初から、資本主義には消費に対する決定的な矛盾が内包されていたこととなります。

 つまり、消費を抑制し、倹約に勤める人間が多ければ消費は低迷します。その代り、資本は蓄積されていきます。反対に、資本の蓄積を行わず、獲得した富を順次浪費して行けば、資本は蓄積されることはありません。

 このことによってわたしたちは次のように結論付けることができます。蓄積した資本を個人的に抱え込み、それを利用して大規模な工場等を設立するなど、社会に投資して行かない限り、資本主義は発展して行かないのです。

 これは、資本の増殖に忠実であろうする資本家は、自らは大量生産・大量消費といった消費の欲望から一歩退き、そこで得た利益を更なる投資へと持続し続けなければならぬ運命に置かれていることを示しています。

 自分では浪費せず、他人を浪費させることで、資本の増殖にひたすら仕えるといった倒錯した欲望に縛られているというのが、資本家の正体ということです。

 そのために、資本主義では、生産手段を自分の肉体以外に所有しない労働者を大量に社会に生み出しました。封建制の時代にあっては、職業選択や移動の自由と言う面では厳しく束縛されていた農民も、耕作地を所有することで、生産手段を持っている存在でした。

 しかし、資本主義下における労働者は、自らの肉体以外の生産手段を所有していないということで、これまでの農民たちとは決定的に異なっていました。職業選択の自由、移動の自由と引き換えに、労働者は生産手段を失ったことになります。

 このことについて、マルクスは「資本論」の中で、資本主義の矛盾と労働者の置かれている厳しい環境を分析し、それを解決する唯一の手段として、労働者階級による社会主義革命と最終的には共産主義社会の実現を宣言したのでした。

 ただ、その後の歴史はそう単純なものではありませんでした。以前にも考察しましたように、資本主義社会の矛盾が一番顕著であるとマルクスが分析したイギリスなどの資本主義先進国では、労働者の蜂起による社会主義革命は起こりませんでした。

 それどころか、19世紀イギリスで起きた産業革命は、大量生産、大量消費サイクルを活性化させ、それが世界に拡大して行く中で、各地域で経済成長が進展し、現代のような資本主義経済を中心とした社会が生まれています。

 実際、一度は社会主義経済思想に基づく国づくりに着手した中国においても、目指そうとしていた経済成長を達成できぬまま、資本主義経済システムを導入することで、その試みに成功し、現在は世界第2位の経済大国として存在感を高めています。

 そして、資本主義経済システムを採用している国においては、マルクスが分析した資本主義経済の矛盾は、一向に解決されることなく、現在も継続している事実が厳然としてあります。

 しかし、資本主義経済の綻びは、意外なところから人々の目に晒されるようになりました。それが「地球温暖化」による地球環境の変化です。

 化石燃料を大量に消費し、大量生産と大量消費による無限の経済成長を続けて来た国々において、これまで経験したことのなかった気候変動による災害や障害が生じてきているのです。

 勿論、こういう言説に対しては、それは誤りであり、地球環境の悪化も地球温暖化も妄言であり、そんな事実など存在しないと主張される方たちがいることは承知しています。実際、地球環境の歴史を遡ってみ見ると、氷河期と間氷期が繰り返され、万年単位での気候変動は珍しいものではありません。

 そういう意味で、現在の環境変化を重要視しない向きのあることは否定しませんが、ただ、大気中の二酸化炭素濃度が、産業革命後の化石燃料の大量使用で、確実に増加している事実は無視することは出来ないとわたしは思っています。

 しかし、資本主義経済である限り、資本の増殖を制御できないことは、前に述べて来た通りです。生産した商品を販売し、そこで得た利益を更なる投資へと注ぎ込んでいくという歯車を資本家が止めることは個人的には出来ません。

 更に、現代では、株主と言う企業への投資を担う人間や投資企業の意向も無視することが出来なくなっています。こうやって、獲得した富を増殖していくシステムを、より効率的に動かしていくことへの関与する関係者が増えて行けば行くほど、資本の増殖は加速していくことになります。

 このように誰も止めることが出来なくなった増殖する資本について、現在、様々な批判が起きています。この批判に対して、政治の舞台でも無視することは出来ず、地球温暖化を防ぐための会議等が開催されていますが、経済的に先進国と後進国、資源産出国と資源消費国との間の溝や対立は埋まることなく、全てにおいて中途半端な施策や提言に終始しているのが現状です。

 さて、ここでもう一度思い出していただきたいのが、資本主義経済の誕生の際に大きな役割を果たした初期プロテスタントの信者たちのことです。彼らは、神から与えられた自らの天職を全うするために献身的に労働に励みました。しかし、そこで得た富を浪費することはしませんでした。

 つまり、初期のプロテスタントは、自身の欲望の赴くまま、獲得した富により、モノを所有し、使用するということへの宗教的嫌悪感が存在していたのでした。だから、幾ら富を手にしたからと言って、自分の欲望を抑えることが可能だったのでした。

 金を扱い、そこから利息などを取るということへの嫌悪感が支配的だった中世のヨーロッパ社会を、歴史において停滞した社会と評する向きもありますが、逆に言えば、過度な経済成長をせずに、循環型経済システムにより、ゆっくりと経済的規模を大きくしていった時代であると捉えることも可能に思えます。

 勿論、単純にそういった過去の世界へと立ち戻るなどとは考えていませんが、大量生産と大量消費を是とする資本の盲目的な暴走に術もなく鼻面を振り回されることへの反省はあっても良いのではないでしょうか?

 これはわたしの感想かも知れませんが、高度経済成長が始まった60年代の日本社会に生きていた人たちと、この21世紀の令和の時代に生きている日本人の価値観は、随分と違ってきたように思います。

 かつては、家や自動車や家電製品などの様々な耐久消費材を1 つ1 つ生活の中に導入し、便利な暮らしを実現することが、誰にとっても求められる価値観として君臨していました。そして、その実現のために仕事に取り組んできました。つまり、消費を前提に懸命に働いてきたことになります。

 しかし、現在はそういう欲望が消えてしまったわけではありませんが、そういう縛りが緩くなり、従来の価値観に縛られずに生きていきたいという人たちも増えてきています。特に、若い世代での消費に関する傾向にははっきりとした違いが感じられます。

 ただ、一方で企業の方は、主流となる価値観だけでなく、個々人に応じた価値観に対応すべく、ビッグデーターを活用して、人々の消費欲求を喚起させるシステムを構築し、消費を促す方法に切り替え、手を緩めようとはしません。

 このように資本の増殖を進め、経済発展に繋げていくことが、地球環境を悪化させ、ひいては大規模な気候変動を齎し、安全な暮らしを脅かすことになるという考えと、そうではなく、これまで通り資本の増殖に忠実で、経済発展を進めていく事が、国の繁栄に繋がるという考えがせめぎ合っているのが今ではないでしょうか。

 そういった世界を二分する思想の対立は、あらゆる分野に生じています。そのため、それを打破するために、岸田首相のように「新しい」という言葉を被せたキャッチフレーズが必要になっているのかも知れません。

 こういう対立は、第二次世界大戦後にも生じていました。資本主義経済圏と社会主義経済圏。わたしがもの心ついた頃には、この2 つの大きな対立がはっきりと目の前にありました。

 それが、ソ連の崩壊とベルリンの壁崩壊により、対立が消滅し、世界が一つになった時代が到来して30年余り、再び、世界は二分し対立が激化しているのです。そして、それも経済システムの違いではなく、地球環境を巡っての対立に姿を変えています。

 そして、この地球環境を巡り、資本主義経済の野放図な発展に対しての異議申し立てが、多くの国で議論されています。そういう中で、わたしは、かつてのソ連や中国で行われていた計画経済ではない、社会主義経済に大きな関心を持っています。

 随分と遠回りをしましたが、資本主義とはどういうものであるかをもう一度考えて見ることにより、これからわたしが社会主義経済を考えていく上でのヒントが見つかったように思えます。次回は、今回の資本主義経済の考察を基にして、社会主義経済について考えていきたいと思います。(了)


「問われている絵画(150)-絵画への接近70-」 薗部 雄作
「地球社会のこれから」 深瀬 久敬
【編集あとがき】
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編集発行:人間地球社会倶楽部

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