浅田さんの論文=日本の社会は、農耕を基盤として、その安定と秩序を重視した運営がはかられてきました。そこでは、権威主義に基づく身分制度のタテ社会が形作られ、同調圧力、空気をよむ、忖度、横並びの集団主義、などが社会を覆っていたのだと思います。そして、重厚長大型産業が主体であったバブル経済崩壊までの社会では、その方向性がはっきりしており、有能な指導者層のもとでの身分制度に似たような秩序と安定が維持されてきたのではないでしょうか。こうした社会のなかで、収入格差が欧米ほどに広がらなかったというのは、「武士は食わねど高楊枝」的な道徳観の残滓が残っていたためではないかと思います。
しかし、軽薄短小の情報化社会などの新たな産業構造に転換していくなかで、それまでの安定と秩序指向の社会運営は崩壊せざるをえなかったように思います。そして、こうした社会では、資本家と労働者といった階級社会的な枠組みは解消され、異なる意見がたくさん表明されるなかで、リーダーシップやメンバーシップの工夫、各意見の客観的な評価、多様な意見の建設的な調整、などが求められますが、残念ながら、日本の社会には、こうした能力が決定的に欠落していたように思います。権威主義的な調整によって安定と秩序を求めるため、非正規雇用や契約社員などといった小手先の効率化に終始したことが、今の日本社会の停滞を招いているのではないでしょうか。自民党政治をこのように断罪してもよいと思います。
もはや資本家と労働者などといった階級社会のような捉え方では、今日の人工知能や情報サービス産業が社会の中核を担う時代には、もはや通用しないと思います。個人的には、古い産業構造や家族制度を前提にした制度は根底から見直し、シングルマザーや困窮した高齢者には、思い切ったベーシックインカムを制度化し、そして、一人ひとりのwell-beingを幅広く追求できるようなDX社会を目指すべきときではないかと感じます。
薗部さんの論文=意味は、近代以前の社会では常に要求されるものであり、存在するものには全て意味が付与されていたのだと思います。そして、意味を付与できないものは存在しないもの、幽霊みたいなものとして、実社会との関係が遮断されていたのだと思います。それが、近代になって存在そのものを問うことは放棄され、因果関係の説明とか、説明性に重点が移ったようです。しかし、説明できないものも存在するのであり、霊界のような人間社会とは別の世界の存在を肯定することもできず、近代の人間は当惑せざるをえないことになります。
そうした状況に対して、説明できないが、厳に存在するものがあるということを抽象絵画は具体例として提示します。しかし、やはり多くの人々はなにか困惑します。抽象絵画にも題名がついていると少し安心し、無題とかにされていると馬鹿にされているような感覚になったりします。
世界には、意味のわからないもの、説明のつかないものがたくさん存在していることは間違いないと思います。人間は、そうしたものとどのように向き合っていけばよいのでしょうか。それは、人間社会のなかに、普通の範囲からかなり逸脱したような人と出会った場合もそうなのかもしれません。原始人のような生活をしてきた人が突然現れたりすると極度の困惑に突き落とされます。国籍とか民族が違うというだけで、その人達が居住している土地の所有権まで争うという状況は、意味にとらわれすぎた前近代的意識といわなくてはならないようにも感じます。
抽象絵画やコラージュ絵画は、そうした意味や説明のつかないものにどのように向き合っていくべきかの心の準備を促しているのかもしれません。
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