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第162号

2024年5月20日

「負けること勝つこと(118)」 浅田 和幸

 

 

 わたしが生きて来た72年の歳月の中で、なにが一番衝撃的な出来事であったかと、改めて振り返ってみると、それはソビエト連邦崩壊による東西冷戦構造の終焉だったように思っています。

 それは、わたしがもの心ついた頃から、この米ソの二大軍事国家による対立は自明のものであり、この対立構造を前提に、世界の政治、経済、軍事といったものが動いていると頭に刷り込まれていたせいだと思います。

 だから、この東西冷戦構造が、自分の生きている間に崩壊してしまうことなど、全く予想も出来ないことでした。多分、こういった感想を抱いているのは、決してわたし一人ではなかったように思います。わたしと同世代である方たちも、同様の感想を抱いていたに違いないと推測しています。

 しかし、現実にはソビエト連邦は崩壊し、連邦の中で最大の面積と人口を占めるロシアとそれ以外に多くの国々が独立し、新しい国家として出発したのでした。

 その当時、このソ連崩壊を目の当たりにした人々は、20世紀において新たに生まれた社会主義経済国家が、資本主義経済国家の前に敗れたという事実を、何の批判も無く受け入れることになりました。矢張り、資本主義経済の方が人々を幸福にするのだという主張を、全面的に受け入れたのでした。

 ただ、前にも書きましたように、ソ連崩壊は社会主義経済体制が資本主義経済体制に敗北したのではなく、ソ連が実施して来た計画経済が市場経済に敗北しただけだということを、もう一度確認したいとわたしは考えています。

 実際、中国においても同様のことが起こりました。毛沢東指導による計画経済では、中国国民を豊かさに導くことは出来ませんでしたが、ト小平による市場経済の導入により、現在GDP世界第二位の経済大国として君臨しています。

 ソ連とは違い、政治的な面では、共産党一党独裁と言ったシステムは維持しながら、計画経済から市場経済にチャンネルを切り替えたことで、驚異的な経済発展を遂げることが出来たのでした。つまり、政治制度の問題と言うより、市場経済の採用ということが大きな要因だったということです。

 さて、復習となりますが、計画経済と市場経済の違いをもう一度確認したいと思います。単純に言えば、人間の欲望をコントロール出来ると考えたのが計画経済であり、コントロール出来ないと考えたのが市場経済だと思います。

 そして、ここで重要なことは、商品を購入する消費者の成熟度だったとわたしは考えています。計画経済を採用したソ連も中国も、革命戦争で勝利した段階で、国内にはほとんど成熟した消費者は存在していませんでした。その日の糧をなんとかして獲得しようといった貧困層が大多数であり、革命政府の取り組むべき課題は、国民を飢えから守るといったものでした。

 その際に、有効だったのが計画経済でした。成熟した消費者のための市場が存在していない以上、国民の腹を満たし、革命政府を延命させていく手段としては、計画経済が有効でした。皆同じものを食べ、同じものを着る。同じ家に住み、同じ暮らしをする。そのために必要な物資を供給していくシステムとして、計画経済は市場経済より効率的でした。

 しかし、国民の腹が満たされ、飢餓の心配が無くなるにつれ、人間の欲望は吹きだしてきます。美味しいものを食べたい、綺麗な着物を着たい、大きな家に住みたい、人とは違った暮らしをしたい、こういった欲望が生まれた時、これまで効率的だった計画経済は、次第に非効率なものへと変質を余儀なくされるのでした。

 その結果が、ソ連は共産党一党独裁体制の崩壊であり、中国は共産党一党独裁を維持しながら、市場経済導入というキメラ的な手法での国家運営となっていったのでした。そして、この決断は功を奏し、中国の経済は急速に発展し、現在では、アメリカと覇権を競い合う強国として世界に君臨しています。

 さて、本来は計画経済であるソ連や中国の経済的敗北を、社会主義経済の敗北として喧伝することで、始まったものが、現在の日本で大きな問題となっている経済的格差を生み出した「新自由主義」という思想でした。

 かつて、わたしは懸賞論文の中で、日本は世界で一番成功した社会主義国家であると書いたことがありました。その理由は、経済的な格差が、その当時、世界のどこの国々よりも小さく、そのことで安定した豊かな社会が実現していると考えたからです。

 実際、当時は、東西冷戦構造が崩壊したばかりで、ソ連の経済は壊滅的な打撃を受け、中国も、漸く市場経済への参入ということで、日本の経済規模とは比較にならぬレベルだったのでした。冷戦崩壊で、新たに生まれた市場を前に、これからの経済発展への期待が高まっている時代でした。

 しかし、その陰で、「新自由主義」は密かに勢力を拡大していました。まず、イギリスでのサッチャー首相による国営企業から民営化への強権的な転換政策により、経済的に不採算と言うだけで、社会の安全弁を果たしていた様々な福祉政策や労働政策が切り捨てられていきました。

 合言葉は「自助」。公の助けを当てにするのではなく、自分の力で生活をやっていきなさいということでした。それまで公が支援の手を差し伸べてきた社会的弱者、子ども、老人といった層への支援や援助を打ち切る政策が大々的に実施されました。

 これは、レーガン政権のアメリカでも同様のことが行われました。医療保険制度の改悪、公教育への支援の打ち切りといったように弱者救済を止める代わりに、軍事費や新しい産業への投資と言ったものに予算を投入する政策でした。

 そして、この流れは日本社会にも到達しました。特に、バブル経済が崩壊し、経済的不況に襲われる中、これまで手厚く国民を守って来た制度を見直す動きが始まったのでした。当時の日本社会は、戦後の高度経済成長、更には、バブル経済を経ることで、一億総中流なる言葉が生まれるなど、豊かな社会が到来したと多くの人々が信じていました。

 だから、自分の努力を怠ることで、中流から下流へと墜ちていく人たちを批判こそすれ、同情するなどといった風潮はありませんでした。そして、それを一層推し進めたのが、この「新自由主義」という思想でした。

 貧しくなるのも、社会で成功しないのも全ては自己責任。他人のせいにして、公の支援や援助を当てにするのは、自己責任を放棄する卑劣な行為だといった考え方が社会に吹き荒れたのでした。

 今でも鮮明に覚えていますが、ボランティアとして紛争地域で活動していた日本人が、テロリストに捕まり、命を脅かされる事件が起きた際に、その人たちに同情するより、そんな危険な国に行って活動していることが間違っているとか、自己責任で言ったのだから、国が関与する必要などない、といった当事者へのパッシングがマスコミを通じて拡散され、その主張に同調する日本人の多さに驚いた記憶があります。

 本来であるなら、卑劣なテロリストを非難する、自国民の安全を守るために、政府が迅速に行動し、事態を打開するようにすべきだといった論調が主流になるはずなのに、それとは真逆な反応を日本人が始めた時代が、日本での「新自由主義」思想の定着と言っても良いかも知れません。

 その後、日本企業の業績悪化、生産性の低さによる国際競争力の低下に伴い、戦後の日本経済を支えて来た企業での「終身雇用」「年功序列の賃金体系」といった制度が、時代遅れなものとして打ち捨てられていきました。

 更に、これまでは一部の就労者にだけ適用されていた非正規労働を、全面的に解禁し、あらゆる職種で適用できるように法改正されたことで、急激に労働者の非正規職員の割合は大きくなっていったのでした。

 その結果、企業の業績の変動により、簡単に雇止めされる労働者が増大し、アメリカ発のリーマンショックによる経済不況に際しては、多くの労働者が職を失い、住むところも失われるなど、大きな社会問題として社会の関心を集めることとなりました。

 そして、この傾向は、現在まで継続しています。高度経済成長期において、日本の労働者の経済的豊かさを保証していた制度が消滅していく中で、これまで中流だと思っていた人々までもが、経済的貧困へと墜ちていく状況を生み出しています。

 今年の「春闘」で、大企業による賃上げ率が、過去三十年ぶりの上昇であるとマスコミが伝えていますが、大企業に就労している日本の労働者の割合は、一割にも満たず、残りはほぼ中小企業の労働者であることを考えると、逆に、労働者間での経済的格差が拡大したというのが、真実ではないでしょうか。

 このような日本の現状に対して、岸田首相は、就任当時に「新しい資本主義」と言う言葉で、行き過ぎた「新自由主義」を抑制しようという意気込みを語っていました。正直、新しいか古いかは別にして、現在の日本社会の経済的格差は、無視できぬ程に拡大し、社会的な不安を醸成させる要因として、為政者にとっては取り組むべき重要な課題であることは間違いありません。

 そういう意味で、岸田首相の目の付け所は悪くはなかったと思いますが、実際に施策として実施されたのは、「貯蓄から投資へ」といったもので、これまで課税対象となっていた株や株式投信の利益の非課税幅を広げる「新NISA」を今年から導入するというものでした。

 この制度は、これまで銀行の定期預金等で貯金していた多くの日本人に、貯金ではなく投資を促すものとして、投資で得た利益を非課税に出来るメリットを全面的に押し出していますが、投資は、必ずしも元本保証はされず、場合によっては、元本を割るような運用もあり得るリスクをきちんと説明されぬまま、この一月から実施されています。

 しかし、これが現在国民の間に広がっている経済格差の是正のための有効な施策であるかとなると、わたしは大いに疑問に思っています。その理由は、投資による利益を得るのは、まず元手を所有している人たちであり、最初から預貯金等が無い人たちにとっては、そこへ参入することすら出来ないと言ことです。

 だから、この新しい政策は、将来に渡り現在の経済格差を是正する方向ではなく、反対に、より一層の格差を生み出すことになるに違いないと考えています。そして、その格差を自己責任として、個人に転化する施策にしか思えないのです。

 それは、これまでにも書いてきたように、資本主義経済成立時から内在している宿痾のようなものが、この経済格差の拡大だからです。古くは、イギリスが成功した産業革命により、それまでインドで生産されていた綿織物が壊滅し、インドの人々は、一次産品である綿を生産するだけで、綿製品はイギリスから輸入しなければならない状況へと追い込まれ、イギリスが豊かになっていくに反比例し、貧しくなっていくという社会が生み出されたことは、歴史的事実です。(かつて、インドのガンジーが、綿糸を繰る手動の機械を抵抗のシンボルにしている写真が、社会の教科書に掲載されていました)

 19世紀から20世紀の前半は、こういった植民地化した国々と宗主国との間の経済的搾取による格差拡大がメインルートでしたが、第二次大戦後は、植民地が独立し、それまでのルートが遮断されたことで、産業化を推し進めることで、内需を喚起し、新たな市場を生み出すことが経済的格差を生み出す原動力となりました。

 日本の場合であるなら、農村からの安価で大量の労働力を都市が吸い上げ、東西冷戦下で二分された世界の中で、安価な製品を大量に生産し、国際競争力を高めることで、高度経済成長を果たしましたが、一方で、若者たちを大量に喪失した地方では、都市との経済的格差は増大しました。

 ただ、日本の場合、国土が狭いこともあり、都市部と地方を繋ぐ、新幹線、高速道路等の建設により、歪は生じながらも、全国民が経済成長の果実を享受することが出来ました。そして、それが一億総中流という意識へと繋がっていました。

 それが、大きく崩れたのは、東西冷戦体制の崩壊でした。それまでの東側のブロック経済、西側のブロック経済といった障壁が、ベルリンの壁と同様に、一夜にして崩れ去ったのでした。新たに生まれた世界規模の経済圏は、これまで優遇されてきた日本社会を直撃しました。

 まず、経済発展により所得が上昇した日本国内での生産は、中国などの安価で大量な人口を有している国々での生産に取って代わられることとなりました。日本企業も、国際競争力を維持していくために、国内生産から国外生産へとシフトチェンジ始まりました。

 当時、国内産業の空洞化といった言葉が語られていましたが、資本主義経済の下での企業活動においては、愛国主義よりも、強欲主義の方が優先されたのでした。実は、戦後の日本社会では、こういった産業のシフトチェンジは繰り返されてきました。

 石炭から石油へと変わった際は、炭鉱労働者が大規模にその職を失うことになりました。また、戦後の日本の貿易輸出を支えて来た繊維産業が国際競争力を失い、倒産や廃業が続いた時代に、それに代わり自動車産業など、新しい国際競争力を有した製品が主力となり、失職した労働者を受け入れることで、社会的不安や極端な経済的貧困が生じることを防いできました。

 しかし、東西冷戦崩壊後の新しい国際経済環境においては、残念なことに、日本はそこでの中心プレーヤーにはなれませんでした。現在言われている「失われた30年」は、まさに、日本が経済的に失速していく過程を表した表現ということになります。

 新しい産業を生み出せぬ日本企業は、利益を確保する方法として、人件費の削減に着手しました。正規の職員から非正規の職員に代えていく事で、予算から人件費を削減しようとしたのは、地方公共団体も同様でした。

 その結果、給与の上昇は抑制され、デフレ状態が連綿と続くことになりました。この経済環境の激変による一番の被害者は、人口ボリュームが一番大きく、非正規労働者の数も大きい団塊ジュニア世代でした。

 ただ、この世代の両親たち、団塊の世代は、環境変化の影響をモロに受けることなく、豊かさを手にしたまま逃げ切ることが出来た世代であったことで、日本社会の弱体化が急激に露出することなく、ズルズルと下り坂を下るといった状態が継続したのでした。

 しかし、その団塊の世代も後期高齢者になり、病気による治療、加齢による介護などが必要になってきた現在、いよいよ見たくなかった社会の矛盾や格差が、多くの人たちの目にも明らかになってきました。

 少子高齢化は、政府が想定していたよりも速いスピード進んでいます。今回の能登地震の被災地のように、地方での高齢化による地域共同体の衰退は、誰の目にも隠しようがありません。

 多分、今回の災害で、同じ高齢者であっても、住んでいる場所や地域により、医療、介護など生活の質に直結したサービスの格差が拡大して行くことになると思います。これも、「新自由主義」による自己責任ということになるのでしょうか?

 前にも書いたように、日本は国土が狭く、気候風土もそれほど大きな違いのない場所で暮らしていることで、インフラ、福祉、教育と公共サービスを一律に享受する権利を持っていると、多くの日本人は信じてきましたが、それもこれからは難しくなっていくのではないかとわたしは予想しています。

 今回の能登地震の被災地では、災害発生後、3か月以上を経過しながら、復旧の目途すら立っていない市町村がほとんどです。その結果、人口の流失は止まることを知らず、ただでさえ子どもが少なかった奥能登から、本当に、若い世代が消えてしまうのではないかといった予測すら伝わってきます。

 そうなると早めに故郷を捨て、生活や進学に便利な都市部へと移住した人たちと、様々な理由で、被災地に残った人たちとの間にも格差が生まれてきます。

 更に、多くの場所で土砂崩れによる道路の分断や海岸隆起による漁港使用不能に対して、税金を投入して、全てを元通りに復元する必要があるのかといった議論も出ています。そうなれば、住む場所や地域による格差が生ずることになります。

 そして、日本列島どこに住んでいても、地震災害から逃れることが出来ない以上、程度の差はあれ、こういった問題は、どこの地域に起きたとしても不思議ではありません。その結果、選別による格差の拡大を防ぐことは出来ないというわけです。

 これは、あくまでもわたしの解釈ですが、19世紀のヨーロッパで生きていたマルクスが見ていた当時の社会で、彼が、何よりも解決したいと考えていたものは、ここまでわたしが書いてきた格差の解消ではなかったでしょうか。マルクスは、産業革命により、産業労働者となった多くの人々が、自分の労働力を商品として売る以外に、生きていく方法が無いということが、大きな社会問題であると考え、資本主義経済を厳しく批判しました。

 更に、この労働力を売るしか生きる術がない労働者は、自由に生きること、人間としての尊厳を持って生きることを阻害されており、それを回復する手段として、社会主義革命を目指すべきだと説いたのだと理解しています。

 ただ、マルクスが生きていた当時、ロシア革命によるソビエト連邦の樹立も、中国革命による中華人民共和国の樹立も無かったため、政治制度の変革が、そのまま社会主義への道であるのだという指針を示さざるを得なかったと思いますが、マルクスが求めたものは、政治制度の変革より、労働力の商品化による人間の疎外を解決に導く手法だったようにわたしは理解しています。

 そういう意味で、現在の日本社会に厳然としてある経済的格差を解消するためには、どこかの革新政党を支持し政権を奪取するとか、もっと過激に暴力革命を起こし体制を変革するといった手段が有効であるとはわたしは考えていません。

 何故なら、わたしたち世代は、そういった手段による変革の思想が幻のように消え去っていったのを実体験しています。わたしが十代だった60年代後半に起きた大学紛争。その紛争の担い手であった学生たちは、政治体制を変えたら、自動的に社会が良くなっていくという楽観的な思想をベースにして活動していました。(勿論、そうでない人たちもいましたが、一般的な学生はほとんどが楽観的でした。)

 それは、人生経験の浅い若者たちである以上、やむを得ない楽観論であったとは思いますが、高度経済成長の恩恵を、広く国民へと還元していくという老練な自由民主党的政治手法の前に、敗北せざるを得ませんでした。(現実論が理想論を駆逐していく)

 その後起きたのは、大学紛争の担い手であった学生たちの思想的変節でした。わたしを含め多くの学生たちは、卒業し、企業へと就職していくことで、その経済的恩恵の分け前を享受し、それまでの思想を若気の至りといった言い訳にすることで、変革への情熱を捨て去ったのでした。

 その結果、あくまでも理想を追求し、政治体制の変革による革命運動なるものを遂行しようとする者は、一部の跳ね返りの過激派の妄想として、社会から抹殺されたのでした。(今年になってその亡霊の1人が突然姿を現し、その後本当の死者となりました)

 こういう経験をしてきたわたしは、現在の日本の状況を冷静に直視する限り、政治が変われば、格差が無くなるなどといった楽観論に組する気にはなれないのです。しかし、だからと言って、格差を野放しにしておけば良いとは考えません。そうではなく、問題の解決方法を、従来の方法ではなく、新しい方法に求めるということをわたしは考えていきたいのです。

 社会主義を標榜する政党が多数派を握り、その力で、社会主義革命を起こし、資本主義体制を崩壊させるといった手段は、19世紀のマルクスの時代に逆戻りすることを意味しています。残念ながら、時間は不可逆です。21世紀に相応しい方法が必ずあると信じています。

 問題は、労働力しか商品として売ることが出来ないという労働者と言う在り方です。これは、働くとことで得られた富、労働者の場合は賃金になりますが、それが生存のために絶対に必要だということで生じた制度でした。

 そうであるなら逆説的に言えば、生存に必要な最低ラインの生活を社会が保証するという方法が可能なら、自らの労働力を商品化せずに暮らしていけるということになるのではないでしょうか?

 ただ、それ以上の生活を享受したいと考えた場合だけ、初めて、そこで労働力を市場に商品として提供するということにならないでしょうか?

 つまり、生存に必要なものを社会が保証することで、格差は存在しながらも、少なくとも、やりたくない労働により、自由を脅かされることも、人間の尊厳を踏みにじられることも無くなるのではないでしょうか。

 例えば、生存に必要なものを社会が保証する1つの案としてベーシックインカムという考え方を最近目にするようになっています。この考え方について次号以降で考えていきたいと思います。(続く)


「問われている絵画(153)-絵画への接近73-」 薗部 雄作
「日本社会の民主主義への覚醒に向けて」 深瀬 久敬
【編集あとがき】
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編集発行:人間地球社会倶楽部

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