団塊の世代のひとりとして、若いころのこの世代の気持ちを代弁すれば、次のようになるのではないだろうか。自分が志す共同体に参加し、その一員として一人前の働きができるように学生時代は勉学に励む。そして、その共同体に参加したら、そのなかで自分独自の働く場を見つけ、そこでの能力を磨き、周囲からの信頼をかち取る。共同体の中で、ある程度安定した立場を確保できたら職場の上司を来賓に迎え結婚式をあげ、家庭をもつ。定年までその共同体の一員としてどんな仕事でも一生懸命にこなし退職金を受け取り余生を送る。
やや極端すぎるかもしれないが、こうしたイメージを若いころは一般的に持ち、社会性の基盤としていたのではないかと思う。すなわち、特定の共同体のなかで一人前の人間として認められ、社会的な役割を担うのが、大人としての男の在り方であり、他方、女性はそうした男性を家庭面から支える、というのが標準的な家庭像とみなされてきた。
しかし、急激な円高、アメリカからの経済制裁、土地神話の破綻などが引き金となって、未曾有のバブル崩壊が始まった。金融機関の倒産が相次ぎ、大企業のリストラ旋風も吹き荒れた。こうしたなかで、会社は株主のものであり、成果主義こそ正しいと公言する経営者も現れた。かくして団塊の世代が抱いていた共同体幻想は打ち砕かれ、失われた数10年を自助努力によって生き抜くことになった。そして、コストカットは日常化し、多くの派遣労働者やパートタイム労働者が生まれた。こうした非正規労働者にとって共同体などは無縁の存在であり、生きていくための便宜でしかなかった。
一方、政治の世界は、特定の利害関係者が結託し、閉鎖的なグループを形成したり、権力を握った官邸が官僚組織を恫喝し、忖度を歓迎する重苦しい雰囲気が醸成された。共同体幻想の消失とともに、保守派と呼ばれる人たちは、日本的家族主義や狭視野の愛国主義を持ち出し、重苦しさに拍車をかけた。
今日の若い世代は、こうした状況を横目で見ながら、特定の共同体に依存することなく、一人ひとりが主体的にどのようにこの社会のなかを生きていけばよいのかという問いに直面せざるをえなくなっている。その結果として、共同体幻想を払拭し、タテ社会の息苦しさに反発しながらも、個としての在り方を探求する姿勢が確実に芽生えてきている。この傾向は女性において一層顕著のようにも感ずる。
こうした傾向は90年代半ばから2010年代前半に生まれたZ世代と呼ばれる若者には地球規模で顕著のようである。この世代はインターネットを身近に育ち、情報収集や情報発信に長けていて、環境問題への意識が高く、多様性や人権を重視する傾向も併せ持つということである。
さらに振り返れば、日本は日中戦争や太平洋戦争に敗北し、一夜にして最先端の民主主義の理念を憲法にいただく国家に変容した。これは占領軍としての米国の圧力に負うところが大きい。一方、当時の経済活動の壊滅的状況、朝鮮戦争の勃発、米ソ冷戦構造の先鋭化、そして、平和憲法、日米安保条約、日米地位協定といったことを奇貨として、経済活動に専念し、短期間のうちに経済大国として復活することができた。こうした状況下では、近代民主主義の根幹の理念である個の尊厳、それの相互の尊重といった側面については、踏み込んだ理解がほとんど深まらなかったと言えそうである。民主主義というと普通選挙と議会制度、三権分立、建前的な自由と平等の理解、といったレベルに止まったままでいるのではないだろうか。そのためか、パワハラ、セクハラ、いじめ、女性差別などが日常茶飯であり、世界的にみても民主主義の浸透度合いは低位に甘んじたままである。
弁護的に聞こえるかもしれないが、個の尊厳、その相互の尊重という理念は、ヨーロッパにおいて、16世紀の宗教改革のなかで、一人ひとりの人間の義とされる生き方を内面から探究する態度から獲得されたものである。従って、そうした経験を経ていない日本の社会において、スムースに受け入れるには、高いハードルがあることはやむを得ないのかもしない。内面との向き合いということでは、禅の修行が想起されるが、衆生救済のために、禅僧はどうすればよいのかというのが課題であり、個人としての生き方を問う姿勢とは、別次元のものではないかと思われる。
西欧世界において、個の尊厳の発見は、権威主義への盲目的追従の拒絶が端緒になった。このことは、個々人の自由、平等を標榜する民主主義の基盤であるとともに、自然界の現象をなんらの制約もなしに客観的に観察することを可能とする科学の発端にもなっている。従って、今日の科学技術の爆発的ともいえる進化のなかで、この発見は数百万年の人類史上からみても画期的で重大な出来事とみなされるべきものである。そして、近代社会はより高度な便利さや快適さを実現することを普遍的な価値とみなすようになった。それが今日の経済成長こそを社会評価の核的基準とする資本主義社会を形成している。日本の社会は、明治維新以来、和魂洋才を掲げ、富国強兵、殖産興業の側面ばかりをみて、天皇を絶対的権威とする社会体制のなかでは、個の尊厳に正面から向き合うことはほとんど不可能であったと言えるだろう。
安定指向でタテ社会構造を当然視する擬似的な権威主義に依拠した共同体幻想から漸く目覚めた私たち日本社会は、こうして明治維新以来棚上げにしてきた個の尊厳とその相互尊重という課題に正面から向き合うようになってきたと言うべきであろう。そして、このことは、Z世代を中心にこれからの日本の社会の在り方を形成していくうえで重要なキーになっていくと予想される。
このことに関連して、以下四点ほど、コメントを加えたい。
第一に、日本社会は、日中・太平洋戦争を通して、数百万人の人たちを不本意な死に追いやった。天皇主権を掲げる大日本帝国憲法のもとで、国家総動員法、治安維持法、玉砕戦法、特攻隊、在郷軍人会、大日本婦人会、学徒出陣、欺瞞的な大本営発表、終戦時の満州棄民、など様々な苦難、軋轢が社会を覆った。そして、東京大空襲のような無差別絨毯爆撃や原子爆弾の投下によって、多数の一般市民が亡くなった。このような体験を通して、日本社会は天皇主権のような権威主義社会に対して深い拒絶反応をもつようになったのだと思う。それが故に、占領軍GHQのマッカーサー元帥を救世主のように歓迎する風潮が生まれたのであろう。
そして、今日の中国、ロシア、北朝鮮などにおける言論弾圧、反政府的言動 をする人たちの拘束、密告推奨などの政策を、わたしたちは深い憂慮感をもって見つめていると言ってよいのではないだろうか。
第二に、日本社会は、民主主義の根幹とも言うべき個の尊厳、その相互の尊重ということをどのようにして理解し納得していけばよいのであろうか。わたしは、一人ひとりが日本人というアイデンティティーを言う前に、地球上に生きる一生命体としてのアイデンティティーを深く自覚し、基本的には人間以外の生物も含めて平等な立場でどのように地球上で共存していくかという視点に立つべきではないかと思う。多様性を尊重し、地球全体の環境をどのように保全していくかは一人ひとりの問題として対応していく必要があるだろう。宇宙から見た惑星地球が漆黒の宇宙のなかに隔絶され神々しいまでの美しさに輝いていることを、私たちは科学技術の発達の賜物として理解している。教育現場としても、こうしたこれからの時代に備えた教育の充実を推進するべきであろう。付言すれば、今日、犯罪を犯した人は、自己責任の側面から処罰されるが、その責任は社会全体にもあると考えられるべきであろう。なぜそうした犯罪がなされたのか様々なデータを駆使して原因を解析し、プライバシーは伏せられた上でオープンにされ、問題意識が社会の広範囲に共有されるべきではないだろうか。このことは、様々な差別やいじめについても同じだと思う。そうした状況の背景にはなにがあるのか分析され、その内容が広く公開されるのが民主主義の社会にはふさわしい。
第三に、民主主義をこれからの地球社会の運営理念の核とすべきことの理解を地球社会全体として深めるべきだと思う。今日の様々な戦争の原因をたどれば、それは権威主義の維持存続に行き着く。ロシアのプーチンという人は、ロシア国境のロシア系住民がウクライナから迫害を受けているとして、ウクライナをネオナチと決めつけ、その対策として大規模な軍隊を動員している。しかし、内実は、自らの権威を維持するための方策であり、そのために数万人の兵士や市民が無意味な死に追いやられている。また、中国の習近平という人は、自らを中華帝国の皇帝になぞらえるべく、自分の威信に逆らうものを一掃しようとしているようである。両者とも権力の座を保持していられる任期延長に腐心していることは明らかである。
日本は、アジアの一国として、民主主義こそがこれからの地球社会の普遍的運営理念であるべきことをあらゆる機会を通して、広めていくべきだと思う。
科学の発端と民主主義の発端は同根であり、権威主義の否定から生じたことに注目すべきである。従って、権威主義によって統治された社会が科学と向き合った場合、それはいびつなものに傾斜する危険を伴うことを理解しておくべきである。ナチス政権が人種差別的な優生学や破壊のみを目的とするロケット開発などに取り組んだことが例として挙げられるであろう。
第四に、補足的になるが、これからは、数万量子ビットの汎用量子コンピュータが実用化され、生成AIの学習能力が飛躍的に高まり、人間の知識を凌駕する時代が間近になりつつあると言われている。こうして、配送経路、マッチング、創薬など、様々な分野のDXが飛躍的に進化し、わたしたちの仕事の内容などが急速に変化していくと予想される。こうした急速で絶え間ない変化のなかでは、一人ひとりの主体的な対応こそが要請されることになる。指示待ち的な在り方や従順を旨とする修道士的在り方も許容されるべきだとは思うが、特殊な在り方になるのではないだろうか。
今日、人類は、権威主義と民主主義の対立、地球環境の劣化、科学技術の急進に伴う脅威化、といった大きな岐路に立たされている。日本は、第一次世界大戦後、列強がその悲惨さを反省し、植民地主義から民族自決に転換しようとするなかで、それを読み取らず、ひとり傀儡政権の満州国を樹立しようとするなど、とんちんかんな動きに終始していた。そうした無頓着さが、太平洋戦争における壊滅的敗北に結びついたことを肝に銘じておくべきだと思う。
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